2018年1月31日水曜日

滝山寺鬼まつり

久しぶりに節気の話をしましょう。もうすぐすぐに節分がやってきます。節分は、年に1度豆まきや恵方巻きを食べるなど、さまざまな節分のイベントを行うタイミングだけを言うのではなく、立春(2月4日)、立夏、立秋、立冬の前日が全て節分にあたります。つまり各々の季節の始まりの日が節分なのですね。

 さて節分といえば豆まきです。これは、季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられていたため、鬼を追い払うために行われるようになったと一般的には伝えられています。この悪魔祓い的行事はもともと宮中行事が発祥です。平安時代に行われていた「追儺(ついな)」が元になっています。追儺は、方相氏(ほうそうし)という鬼役の役人と、方相氏の脇侍となる役人総勢20名で、大内裏の中を「鬼やろう(鬼やらい)」と掛け声を掛けながら練り歩く行事でした。方相氏の付けていた面は、現在の赤鬼青鬼とはだいぶ異なり、金色の目が4つ付いた、呪術の面のような独特の様相をしています。面白いことにこの方相氏は、現在のように鬼そのものとして現れるのではなく、逆に鬼を追い払う特別な神としての役割を担っていたそうです。方相氏が大内裏をめぐる際は、公卿の一人が方相氏を援護するため弓を清涼殿から引き、他の内裏にいる殿上人たちは方相氏のためにでんでん太鼓を振って音で彼を援護しました。これが厄払いだったのです。ある意味英雄であった方相氏が、忌み嫌われる鬼側に身をやつしたのは、9世紀に入ってからのようで、その理由はよくわかっていません。

 全国的にさまざまな厄払いが行われる節分ですが、岡崎市の滝山寺では一風変わった節分まつりが行われています。それが「滝山寺鬼まつり」です。滝山寺の創建は、天武天皇の時代(朱鳥元年,686年)にまで遡り、鬼や式神を操ることで知られる、かの超有名な修験者役小角(えんのおづぬ)が創建した「吉祥寺(きっしょうじ)」という寺が起源であると滝山寺縁起に伝えられています。1222年、清和源氏のひとり足利義氏によって建てられた本堂は国の指定重要文化財ですが、滝山寺鬼まつりではこの本堂に巨大な松明を持ち込み、境内回廊を練り歩きます。この際、爺面、婆面、孫面という、3つの鬼の面を被った鬼役も回廊を一緒に練り歩きますが、彼らはかつての方相氏と同じく、鬼を払う神としての役割を担っています。つまり滝山寺の鬼たちは、極めて古い形の鬼の役回りを担っていると考えられるのです。鬼役の人物は祭の前1週間、潔斎沐浴して別室で寝起きをし、四つ足動物の肉を口にすることができません。また彼らの身の回りの世話や炊事は、全て男性によってまかなわれます。これは祇園祭の鉾に乗る稚児役と同様のものです。岡崎の鬼まつりは、ダイナミックな松明にだけ着目されてしまいがちですが、実は大事なのはそちらではなく、3人の神となった鬼役こそが主役なのです。

(文責S)


 鬼まつりの陰に隠れてもうひとつ、この3人の鬼には別のコワイ逸話が残っています。実はもともと面は5つあったことが伝えられているのです。残りの2面は父面と母面であり、精進潔斎を行わずにこの面をつけて祭を行った僧の顔に面が張り付いて取れず、遂には死に至ったそうです。彼らは面とともに境内内にある薬師堂の前に葬られました。この場所は「鬼塚」として現在も残されていますが、ここでは鬼まつりの際、炒った五穀を撒き、「春秋の芽の生うる時出で来たれ」と呪文が唱えられます。炒った五穀は撒いても芽は出ません。つまりこれは鬼が「一生出てこないようにする」ための呪いとも考えられます。そして鬼を封じた五穀は、薬として持ち帰る風習があるそうです。

 もし炒っていない五穀を撒いたらどうでしょう。もしかしたら本当に父面、母面が復活してしまうかもしれませんね。力ある神(鬼)を祀ることで私たちの厄を払ってくれもしますが、いい加減にやると本当に悪鬼となってしまうという良い例だと思います。ちなみに鬼に投げつけている豆ですが、あれはもともとは鬼に捧げる供物であり、そっと鬼へお供えし、機嫌よく帰ってもらうことが目的であったそうです。考えてみたら、でんでん太鼓の音が豆を撒く音に似ているから、そこから豆まきに変わったのかもしれません。ちなみに今年の鬼まつりは2月17日ですよ、かなり混みますがこの機会に一度行ってみてください。

 今年は鬼に豆を力一杯投げつけるのではなく、試しに綺麗な器にお供えし、そっと縁側にお供えしてみてはいかがでしょうか。いくら強い鬼とはいえ、痛い思いをするよりもゆっくり座って美味しい豆が食べたいかもしれません。ちなみに私はちょっとこの方法でいってみたいと思っています。

2019年の鬼祭りクライマックス


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