2017年3月30日木曜日

浄瑠璃御前物語考

 「浄瑠璃御前物語」と言われて、あああれね!と気づく人がいたら、その人はかなりの伝統芸能マニアです。私自身、実のところ岡崎に来るまで全く知らんかったし。ただ、浄瑠璃、という言葉を知らない人、聞いたことがない人はほとんどいないと思います。

 浄瑠璃と言われたら、いわゆる人形浄瑠璃などの日本伝統芸能をイメージされるかもしれませんが、もともと浄瑠璃とは、東方にあると言われる薬師如来の「東方浄瑠璃浄土」にちなむ言葉です。「浄」は清らかという意味、「瑠璃」はもともとサンスクリット語のバイドゥーリヤ(漢音写:吠瑠璃)という青い宝石(ラピスラズリもしくはサファイアか)を指し、薬師如来の治める死後の世界(浄土)は瑠璃で豪奢に装飾されている、という考えのようです。だから薬師如来信仰の浄土は、別名「瑠璃光世界」と言われます。

 薬師如来は神道の神々との関連も深く、たとえば神仏習合の折、熊野速玉宮のご祭神である熊野速玉大神に本地仏として与えられたのが薬師如来であり、かの日光東照宮のご祭神である徳川家康(東照大権現)の本地仏も薬師如来です。これは、家康公のご母堂である於大の方(おだいのかた)が、愛知県新城市の鳳来寺の薬師如来を参ったことで家康公を授かった、という逸話から、家康公を薬師如来の化身、としたのだと思います。薬師如来は東方にある浄瑠璃世界にあって衆生の病苦を救う「医王」と考えられていました。単独像として祀られることもありますが、最も有名なのは奈良薬師寺の国宝では薬師如来を中尊に据え、脇侍として「日光菩薩」と「月光菩薩」を添えた薬師三尊として祀られている姿です。

閑話休題。浄瑠璃に戻りましょう。

 伝統芸能の「浄瑠璃」とは、「平家物語」など物語を三味線や琵琶の演奏に合わせて語る「語り物」です。いわゆる霊験譚や民間伝承を法師が楽器片手に語っていたのが浄瑠璃のスタンダードな姿ですが、浄瑠璃が始まりだした鎌倉時代当初は楽器はなく、言葉だけで謳いあげるのが浄瑠璃の姿でした。その古くから語られてきた浄瑠璃の演目で有名なのがこの「浄瑠璃御前物語(浄瑠璃姫十二段草子)」であり、岡崎を舞台としたものです。この曲は広く大衆の支持厚く、語り物全般が「浄瑠璃」と呼ばれるようになりました。

浄瑠璃物語の中身はこんな感じ。

 昔、岡崎の長者であり矢作川沿いに居を構えていた兼高長者は長く子供を授からず、薬師如来に祈ってようやく授かった娘に「浄瑠璃」と名付けます。浄瑠璃姫は16歳の時、奥州征伐の途中で立ち寄った源義経(牛若丸)に見初められ、ほぼ強引に押し切られ、一夜を共にすることになります。次の日義経は早々に旅立つのですが、静岡で大病をし、仲間に置き去りにされます。義経の危機をお告げで知った浄瑠璃姫は彼を助けに向かい、彼女の介抱によって義経は快方に向います。旅立ちの際、義経は彼女に「薄墨」という名笛と麝香(じゃこう)を預け、再会を誓います。しかしその後家に戻った浄瑠璃姫は両親から幽閉され、義経を待つことなく菅生川に身を投げ17歳で亡くなります。その後岡崎の地に戻った義経は既に姫が亡くなったことを知り、姫の弔いに「妙大寺(地名である明大寺はこの名残り)」を建立、そして千本の卒塔婆を立てます。そして姫の両親は、姫の魂の浄化を祈り、矢作町にある誓願寺に十王堂を建立しました。十王とはあの世の入り口の審判をしている10名の裁判官を指し、一番有名なのが閻魔様です。

 ちなみに千本の卒塔婆に経を書き付ける際の墨を擦った硯は自然科学研究機構山手キャンパスの土地に祀られ、現在は硯台という地名でのみ確認することができます。また姫が義経より預かり肌身離さず持っていた麝香は、現三島小学校の敷地内にある麝香池の畔りに麝香塚として祀られました。これも山手キャンパスの隣に位置します。麝香塚は宅地開発で潰されてしまいましたが、塚の石垣は東岡崎駅前東側にある六所神社山道、高宮神社の碑の基礎にされているため、今でも実際に触れて確かめることができます。

 16歳のまだまだ若く、しかも最初は強引に口説かれた美しい女性が男性の危機を救うまでの行為に対し、親の出した結論が幽閉とはなかなか厳しいものがありますし、何より娘の入水後、この両親はお弔いと称し、娘の眠る寺院に十王堂を建てています。十王信仰とは死者が地獄や六道へ堕ちないよう10名の裁判官を祀ることで、できる限りその審判を軽くしてもらおう、というのが主な目的の信仰です。つまりこの両親は、娘が「生前の罪」で六道の輪廻や地獄へ堕ちる可能性がある、と考えているのです。現在十王の名は市役所付近の町名として残っているのですが、その隣町である「六地蔵」という地名もこの十王にまつわる地名です。十王の裁きによって六道に堕ちた衆生を救うため、6つの世界それぞれにいらっしゃるのが6名の地蔵です。結局両親の中では、娘は六道の輪廻に堕ちたと判断されたのでしょうか。彼女の行為がそこまでの罪なのか私には分かりませんが、心から彼女を可哀想だなと思います。

 さて、山手キャンパスのみならず、浄瑠璃姫にまつわる遺構は岡崎市内にたくさんあります。特に十王町にある三河別院の西院は、姫の笛の音を追って辿り着いた義経を姫がもてなした「観月荘跡」と言われ、今でも裏手にひっそりと碑と月を映したであろう大きな亀型の手水鉢が置かれています。



  義経がここを訪れた時は十五夜であったようで、この手水鉢に映る月を眺める二人の姿はそれは儚くも美しかったことでしょう。この時姫の吹いた笛は義経の名笛「薄墨」であり、これまた幸薄そうな銘なのですが、姫が義経より預かった名笛としてやはり誓願寺十王堂に安置されているそうです。しかし義経の薄墨は、静岡県静岡市清水町にある臨済宗の寺「鉄舟寺(前 久能寺)」に現存しており、こちらはきちんと重要文化財として修復・保存されています。つまりこの浄瑠璃姫伝説自体、別の逸話を義経伝説に置き換えたものか、または完全に後世の創作である可能性もあるのではないかな、とも思います。

 しかしこうして改めてみてみると、岡崎と薬師如来信仰の歴史は思っていた以上に根深そうですね。 何より以前真福寺について書いた際、ご神体は井戸だと書きましたが、この井戸自体が水体薬師、とされています。物部から家康まで、一貫して薬師如来の息吹が残っている上、町の名として十王や六道など、とにかくやたらと黄泉の世界の匂いまで漂うこの岡崎という土地、とってもとっても意味深な場所だと思います。

(文責S)

2017年3月28日火曜日

伊勢ツキヨミ宮の謎

 今回は伊勢の内宮と外宮それぞれの別宮である月読宮(外宮では月夜見宮)の謎に迫ります。とても特別なお宮であり、この宮やご祭神である月読命にはさまざまな憶測や考察がありますが、可能な限り常識にとらわれず、ここでは私達なりの客観的な仮説を提唱したいと思います。

  まずは伊勢神宮について基礎からおさらいしましょう。

  伊勢神宮には内宮と外宮、二つの正宮があります。内宮正宮のご祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)。太陽の神であり、皇室の御祖先としてその名を知らない人はいないでしょう。対して外宮正宮のご祭神は豊受大御神(とようけのおおみかみ)。この神様は日本書紀には登場しない、よくわからない神様です。古事記では「豊宇気毘売神」「等由気大神」などと表記され、天照大御神のお食事を担当される神様、とされています。古事記では、国生み神話の伊奘冉(いざなみ)の尿から生まれた稚産霊(わくむすび)の子と書かれています。しかしこの神様は、出身だけははっきりと明らかになっているところが面白いところで、「丹波国の比沼真名井」つまり現在の丹後半島にある籠神社(奥の院の名が真名井神社)より天照大御神が伊勢探しの旅に呼ばれた、と書かれています。つまり丹後出身のよくわからない神様、なのです。

  日本書紀では伊奘諾(いざなぎ)と伊奘冉の正当な子として、そして古事記では伊奘諾の左目から生まれた太陽の化身として記述される三貴神のひとり天照大御神と、伊奘冉の系統とは言え別の神から生まれたお食事係の豊受大御神が同列に並ぶ、というのはだいぶ違和感があります。歴史学者であり宮司でもある戸矢学氏が著書「ツクヨミ 秘された神」の中で指摘している通り、天照大御神と川を挟んで隣同士に並ぶ神格を持つのは、同じく三貴神であり右目から生まれた月読命(つくよみのみこと)こそふさわしいと思います。しかし何故か、月読命は内宮でも外宮でも別宮扱いであり、完全に独立した形でそっと正宮に寄り添っています。

  月読宮(外宮では月夜見宮と書きますが、どちらもつきよみのみや、と読みますので以降内宮外宮を分ける時以外はまとめてツキヨミ宮とします)のご祭神である月読命は、天照大御神の弟神にあたり、左目から生まれた天照と右目から生まれた月読は、まさに昼と夜、表と裏の関係です。よって伊勢神宮の数ある別宮の中でもひときわ特別な扱いを受けています。

  場所を確認すると、内宮の月読宮は正宮から北へ約2km離れたところにあります。周囲は凸型の下の棒がない、内宮側の底が抜けた形のお濠(ほり)で囲まれています。お濠の一辺は約150m。実はこの月読宮と内宮正宮がある五十鈴川で囲まれた敷地は、サイズ的にちょうど月と地球のサイズ比に一致しているばかりか、距離も月と地球の比と一致するのですが、これって偶然なのでしょうか?

 外宮の月夜見宮は、外宮正宮から北へ約700m離れたところにあり、外宮側へ入り口を向けた、凹の字のへっこんだ部分を取り去った形のお濠で囲まれています。

左図は外宮の月夜見宮、右図は内宮の月読宮(Google Mapより)

 お濠の一辺は約120m。外宮は内宮のようなサイズや距離の不思議は無いものの、正宮からほぼ真北に位置するということは、月夜見宮から夜に正宮をみると、南に入る月が正宮の上に綺麗に見えるであろう配置です。つまり、月夜見宮がその名の通り月を読む、あるいは月を見るという目的で作られた宮であるなら、その姿が正宮の上に上がるこの配置は理に叶っていると言えます。

正宮とツキヨミ宮との位置関係(Google Mapより)

この内・外宮正宮と二つのツキヨミ宮、どうも一見創建の意味合いが異なっていそうにも見えますが、お濠の凸凹構造にせよ配置にせよ、そもそも月読命を内・外宮正宮に対し同じ配置で祀るということ自体、ツキヨミ宮が正宮と対である確固たる証と言えます。

 この内・外宮正宮とツキヨミ宮の対構造は、本殿の屋根に並ぶ千木(ちぎ)の削ぎ方と鰹木(かつおぎ)の数からもみてとれます。内宮では、正宮、別宮の区別なく全ての本殿を飾る千木は内削ぎで、鰹木は偶数本です。内削ぎの千木と偶数本の鰹木は、一般的にご祭神が女性である場合に用いられます。例えば草薙剣を守る熱田神宮は、日本武尊の妻である宮簀媛の神社であり、この様式を取っています。一方外宮では、正宮、別宮の区別なく全ての千木は外削ぎ、鰹木は奇数に揃えられています。これは一般的にご祭神が男性である場合に用いられている様式です。

 つまり内宮と外宮、どちらも天照大御神(一説には男性説もあり)と豊受大御神(天照のお食事係であり関係は従属的、豊受姫と明確に女性として記載する神社もあり)という女神を祀っている設定であるにも関わらず、社の形態は内宮が女性、外宮が男性と、男女一対になっているのです。さまざまな説があるとはいえ、特に豊受大御神は男神を祀る構造を取る外宮正宮のご祭神には馴染まないのではないかと思われます。もっと言うなら、この豊受大御神は古事記のみ明記している神であり、日本書紀には登場しないくらいの神様です。さらにこれは伊勢神宮の最大の謎と言ってもいいのですが、三種の神器のひとつとされる八咫鏡をご神体とする内宮に対し、外宮のご神体は何なのか明らかにされていないのです。これはあまりにも内宮と外宮で差が大きいと言わざるを得ません。

 この豊受大御神にも、天照の弟神である月読命が組み合わされているのが妙ではないですか。天照、月読、素戔嗚は伊奘諾から生まれたれっきとした三貴神です。伊勢に素戔嗚が皆無なのも気になりますが、何よりまず月読が内宮と外宮でダブルブッキングしていること自体、めちゃくちゃ謎じゃないでしょうか。

  ここからが本題です。今回は仮説を超大胆に展開していきましょう。

 日本では古来より二元論で物事が考えられてきました。太極図に代表されるように、陰と陽、月と太陽、男と女、暗と明、内と外、など、全ては表裏一体、ふたつでひとつの形を取ります。神様もしかり。古事記ではまず天地開闢の際に現れたのが天之御中主神(あめのみなかぬし)で、その後より高御産巣日(たかみむすび)、神産巣日(かみむすび)の二神がセットで現れます。つまりこの造化三神と呼ばれる三神の最初の一人から伊奘諾・伊奘冉に到るまで、つまり三貴神の現れる前までは、ほぼ神は対で現れます。これらは常にふたりでひとつという考え方です。内宮と外宮というコンセプトも、これとほぼ同じ考え方でつくられたからこそ、同じような構造で建てられ、一方を女神、もう一方を男神として作ったのではないでしょうか。
 
 つまり私たちは、外宮のご祭神とされる豊受大御神の本性、それは男神なのではないか、と考えているのです。そしてその対である外宮のツキヨミ宮には女神、内宮のツキヨミ宮には男神が祀られているのではないでしょうか。千木、鰹木の性質を正宮にのみ信頼した場合、この仮説は成立します。つまり構造的には内宮・外宮が男女であるが、そのご祭神も男女ペアになっているのではないですか、というのが今回一番の仮説なのです。
 
 ちなみに、内宮側の月読命は男神であると皇太神宮儀式帳に記述があります。皇太神宮儀式帳によると、月読命のお姿は馬に乗る「男」の形であり、紫の衣を羽織り、金の剣を持つと書かれています。つまり内宮では純然たる設定として月読命は男神なのです。しかし何度も言いますが、内宮の月読宮は千木も鰹木も女神仕様であり、記述に反します。もちろん月読命は女神である、という解釈もあります。

 よく考えてみると、上記の月読命のお姿は天皇や天皇に並ぶくらいの高貴な血筋の人のお姿を比しているのではないか、と考えられます。紫とは、佐賀の吉野ヶ里遺跡から紫に染められた繊維が出土するなど日本では古くから使われていた色です。しかし小さな貝から取るので非常に手間がかかり高価な色として知られています。つまり高貴な身分の人物しか持ち得なかったものです。8世紀の律令制で明確に禁色が設定され、特に紫は親王・諸王・諸臣三位以上しか持つことが許されない色とされてきたことが知られています。紫が天皇の色と印象付けた代表的な歌がありますね。

額田王から大海人皇子(天武天皇)へ詠んだ恋の歌
「あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」
対して大海人皇子はこう返します
「紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我れ恋ひめやも」

あなたが私に向けて手を振る様を野の番人が見やしないでしょうか と言う額田王に、紫のように美しい貴女を憎いと思うなら、人妻なのにどうして恋などするだろう  と天武天皇が返します。

 紫は天皇かそれに相応する身分を現す証であり、高貴な色であることがよく分かる歌です。このように紫の衣を着た金色の剣を佩刀する馬に乗る男性って、天皇とまではいかなくても親王以上の身分の人を指しているのではないでしょうか。そう思ってしまうくらい、内宮の月読命の説明は生々しく具体的です。しかも、これは戸矢学氏も指摘していますが「月読命」は月を読む神と書き、そもそも月そのものの神(月神)とは書かれていないのです。月を読むとは暦を読むこと、暦に精通していた上、古事記の記載内容に指示を与えることができた位の高い御仁って、年代的にも立場的にも「天文遁甲を良くした」あの天皇そのものであると思うのですがどうでしょうか。

  しかし、そもそも神様に性別を割り当てることは考えてみれば妙な行為です。神である限り、両面性があっても不思議ではありません。天照大御神は一般的には女神とされていますが、男神であるという考えを持った学説もあります。もっと言えば、内宮側のツキヨミは月読ではなく素戔嗚なのかもしれません。三貴神を同格と扱うなら、素戔嗚の可能性もあるわけです。事実、月読命と素戔嗚は逸話が重なっているものが多く、そうなると月読命は素戔嗚尊と裏と表、または女と男の関係とも言えるかもしれません。こう考えると、そもそも豊受大御神とは天照大御神の裏の顔、つまり素盞嗚を暗に示した可能性だってあるのではないでしょうか。三貴神の中でも特に出雲との関わりがあるなど、国津神の性質を色濃く持つ素盞嗚を外宮へ大々的に明記するわけにはいかなかったから、あえて豊受大御神という豊穣の神、いわゆる地球や大地そのものの国津神の象徴として比したのでしょうか。全くもって分かりません。しかし、もし仮に素戔嗚尊だとすると、丹後籠神社から来た国津神、という設定は合うと思いますし、何より天津神に対する国津神、という対も成立すると思うのですが、どうでしょうか。

 白川静が説いた神の勅を納める箱を意味する象形文字「サイ」の形にも似たお濠に囲まれる2つのツキヨミ宮。そのお濠が、一方は凸の字に似ており、他方が凹の字に似ているのは偶然なのでしょうか。お濠を字に見立てれば、内宮は男、外宮は女であるというのは大胆すぎる仮説でしょうか。もしそうなら、豊受は天照と表裏の関係、男性女性の関係、夫婦の関係、を表していると考えるのが自然だと私たちは考えるのです。

 結局のところ、外宮の豊受大御神、あるいはご神体の謎が解かれないままでは、2つのツキヨミ宮の謎は謎のままなのです。

 さらなる歴史の冒険が必要なようですね。

(文責S)

2017年3月26日日曜日

明大寺とは何か

 愛知県岡崎市には、今はもう残っていない二つの大寺院の名跡があります。

 ひとつは東岡崎駅あたりに残る、明大寺(妙大寺)という地名。明大寺は町の名前として残っています。明大寺の町域の広さから考えると相当重要な寺であったと考えられますが、今はその伽藍の痕跡もありません。つまり、名前だけがあって肝心の寺自体の痕跡が全くわからない状態です。でも、明大「寺」って言うくらいだから、そういう名前の寺院がこの辺にあったのは間違いなさそうです。

 もうひとつは、以前記事にした北野廃寺。北野廃寺は明大寺と異なり、寺の基礎が現存していることから、創建年代や規模などを今でも伺い知ることができます。北野廃寺の創建はとても古く、飛鳥時代にまで遡る上、その規模は大阪の四天王寺級の巨大な寺であったこと、そして創建には聖徳太子が関わっていたようであることなどが分かっているのですが、こちらは肝心の寺の名前が不明な状態です。北野という地名に残る寺院跡、だから北野廃寺。北野廃寺という寺名ではないわけです。

考えてみたらとても不思議じゃないですか。
片や名前だけが残り痕跡のない「明大寺」。
片や痕跡はあるけど名前のない「北野廃寺」。
この二つの寺跡、実は不思議な糸で繋がっているかもしれません。

  明大寺の由来は下記のリンク先にとても詳しくまとめられています。
http://www.okazaki-renaissance.org/discover/show/3

 このHPによると、明大寺はかつては「妙大寺」として存在したそうです。そしてこの妙大寺建立の歴史は全て源義経(牛若丸)と浄瑠璃姫の物語が軸となっています。

以下引用。

“承安4(1174)年、浄瑠璃姫が16歳の春のこと、牛若丸は身分を隠して、京都の鞍馬から奥州の藤原秀衡の元へと向う旅に出ました。その道中に、矢作の宿を訪れたのです。都を懐かしむ牛若丸の耳に、浄瑠璃姫の奏でる琴の調べが聞こえ、牛若丸は琴の音にあわせて手持ちの笛「薄墨(うすずみ)」を吹いたのでした。それがきっかけとなり、姫は牛若丸を屋敷に招き寄せ、二人は出合い、惹かれ合う仲となりました。その後、牛若丸は再び姫の屋敷を忍び訪れ、拒む姫を口説き落として一夜を共にし、その翌朝、奥州へと旅立っていったのでした。
 ところが、牛若丸が静岡の吹上の浜(静岡市清水区蒲原)まで行ったところで、瀕死の大病を患い、浜に棄てられてしまいました。それを牛若丸の守り神のお告げを聞いた浄瑠璃姫が助けに行きました。二人は再会を果たし、浄瑠璃姫はそこで牛若丸から彼の素性を明かされます。別れ際に、互いに形見を交換し、牛若丸は再び東方を目指し、浄瑠璃姫は矢作へと帰っていったのでした。

中略

 吹上の浜から矢作に帰った浄瑠璃姫は、母から家を追い出され庵に幽閉されてしまいます。義経との再会を心の支えにしてすごしましたが、ついに悲嘆にくれて乙川に身を投じてしまいました。その後、義経は軍勢を率いて上京の途中、姫を訪ねますが、姫は既にこの世にはいないことがわかり、姫の供養のために墓所を訪れます。すると供養塔の五輪が割け、そこから姫の魂が飛び出し天に昇って行ったとのことでした。”

 つまり、義経への思いを募らせている上親から関係を咎められ、屋敷へ幽閉された浄瑠璃姫は矢作川の浄瑠璃が淵で入水自殺。そして後に浄瑠璃姫が亡くなったことを知った義経が建てた寺こそ妙大寺だとのこと。ちなみに近隣の地名となっている千本とは、義経が彼女のために千本の卒塔婆を建てたから付いた名であるとしています。この妙大寺は多数の伽藍からなる大きな寺であったと言われており、その規模の大きさは、寺の痕跡が残っていないとしても地名として現存する明大寺地区の広さからみても、そして千本もの卒塔婆を建てたという逸話からも、女性の悲恋物語には過度なレベルの弔い方だと言わざるを得ません。

 しかも、この浄瑠璃姫のご両親は彼女の弔いのために「十王堂」まで建てています。悲恋に散ったうら若いひとりの女性の弔いに「十王」とは、なかなか穏やかではありません。


「十王」とは、地獄の10名の裁判官的な神様を指します。中でも最も有名なのは閻魔様です。十王信仰は、全ての生けるもの(衆生)はみな、初七日 から四十九日、百か日、一周忌、三回忌には、順次十王の裁きを受けるという信仰で、生前にこの十王を祀ることで、死んだ後もこの裁判での罪を軽減してもらえるという考えが元になっています。十王は死者の罪によって地獄へ送ったり、六道への輪廻をめぐらせるなど、大変怖い存在として認知されていました。そしてこの十王のひとりである閻魔様の部屋に飾られている、人の善悪の全てを包み隠さず映してしまう、審判の一番キモになる鏡の名こそ他ならぬ「浄瑠璃鏡」と言うのは、果たして偶然の産物なのでしょうか。

 つまり、この浄瑠璃姫物語、よく考えるといくつか疑問が残るのです。

1. 妙大寺の場所はどこか。
明大寺として残る町名は広範囲に及ぶにも関わらず、その跡地は不明。

2. 不自然なくらいの巨大な寺がなぜ消失したのか。
うら若い女性の悲恋の物語に不釣り合いなほどの規模の寺院の可能性。

3. 娘の死に際し、十王を祀った親の真意は何か。
彼女の幽閉と十王の性質から考えて、浄瑠璃姫の両親は彼女の所業を「罪」と思っていた可能性が高い。源氏の大将の弟君である義経から見初められたというのは、一地方の姫にとっては名誉なことでありこそすれ、そこまでの罪とみなされる原因とは思い難い。

 4. 浄瑠璃姫の遺物や痕跡は岡崎中に点在している。各所から見えるものは何か。
まずは浄瑠璃姫の痕跡をざっとリストアップしてみましょう。

① 浄瑠璃姫の墓(康生町)
岡崎城は現在の岡崎城よりもはるかに広く、浄瑠璃姫が幽閉されていた草庵の跡地もその敷地内にあった。その場所には浄瑠璃姫を弔った寺があったとされ、浄瑠璃曲輪と呼ばれていた。浄瑠璃姫の墓はいまは国道1号線沿いに岡崎城の外に移されている。浄瑠璃姫の侍女の墓という説もあり。

② 成就院(吹矢町)
浄瑠璃姫が入水自殺をした場所は浄瑠璃が淵と呼ばれている。入水前に着替えをした祠には観音像があったとされる。浄瑠璃が淵が堤防整備とともに取り壊されたとき、穴観音にあった観音像はすぐ近くの成就院に移された。

③ 誓願寺(矢作町)
浄瑠璃姫の父である兼高長者の家があった場所、すなわち浄瑠璃姫の生地。義経が浄瑠璃姫との宴会にて吹いたとされる薄墨の笛が安置されている。

④ 浄瑠璃寺(康生通西)
元々岡崎城内で姫の幽閉されていた草庵跡である。浄瑠璃姫の墓とよく似た痕跡であるが、浄瑠璃という名のつく寺はここだけである。

⑤ 六所神社(明大寺町)
現在の六所神社の参道にその名のみ残されている神社が高宮神社。大正時代、六所神社の替わりに短期間使用された名前。三河へ戻った義経が姫の愛した麝香(じゃこう)を祀ったとされる麝香塚を形作っていた石は、高宮神社の名を示す石塔の礎石として使用されている。これが大正時代のことだから、明治には麝香塚はまだ存在していたと考えられる。

⑥ 三河別院(十王町)
浄瑠璃姫が義経のために観月の宴を行ったところとされる。

⑦ 三河善光寺/無量寺(久後崎町)
妙大寺のご本尊であったとされる馬頭観音像を安置している。この寺は元々殿橋の南側にあったが、川の氾濫がよく起きていたため現在の位置へ移築されたとのこと。明大寺及び明大寺城の廃止の一因も風水害だったかもしれない。善光寺の名が示すように、本多氏が建立した寺である。

⑧ 麝香塚(明大寺町)
浄瑠璃姫の遺物である麝香を安置していた場所。大正時代の宅地開発によって消失。現在は明大寺町字麝香塚という名称のみ残っている。

⑨ 硯田(明大寺町)
 浄瑠璃姫のための千本卒塔婆の文字を書くために使われた硯を埋めた場所とされる。恐らくはこれも大正時代の宅地開発によって取り壊されたと思われる。旧愛知教育大のグラウンドとして使用された場所で、現在は自然科学研究機構のキャンパスになっている。

⑩ 麝香池(明大寺町)
浄瑠璃姫の遺物である麝香を安置していた場所。三島小学校の裏池となっている。
☆ その他の手がかり
・吉祥院(明大寺町):万燈山と呼ばれる高台にある寺。妙大寺の伽藍の一部とされる。
・千本(明大寺町):麝香池からみて北側の旧地名。千本卒塔婆の場所。
・安心院(明大寺町)
度重なる兵火のため明大寺は衰退。安心院の草庵だけが残ったと伝わっている。安心院に残る十一面観音は、牛若丸から浄瑠璃姫へのプレゼントという言い伝えがある。妙大寺跡地として最有力候補か。

 ひとつ重要なのは、当時の主要道路は東海道ではなく、旧鎌倉街道であった、ということです。現在は東海道こそが主要道路であることだけが見えていますが、東海道から見て川向うにあたる東岡崎駅側、つまり明大寺町の側にこそ、当時の主要道路である旧鎌倉街道は走っており、そこが岡崎のセンターだった時期がある、ということです。

 家康公の血筋である松平氏が台頭する以前、この地は西郷氏が支配しており、明大寺側に城があったことがわかっており、これは街道が明大寺側にあったこととも符合します。その城の名前こそ、現六所神社から川沿いまで広がっていたと思われる「明大寺城」です。西郷氏あるいはそれ以前の支配者は、この明大寺城あたりを根城にしていたと思われます。六所神社の裏から今でも見ることができる積み上げられた石垣は、もしかしたら明大寺城の遺構であるかもしれない。ちなみに六所神社の宮司さんのお話でも、六所神社が元々城内に建っていたと伝わっているそうです。
 
 では現在の岡崎城は一体何か。ここは、矢作川と菅生川(乙川)の合流地点であり、海運の要所と考えられます。つまりここもまた岡崎の要所と言えば要所です。しかしいわゆる関所に浄瑠璃姫は幽閉されたのです。男性からの申し入れを受け入れたとはいえ、最初は拒んだ気高い姫のたった一度の恋の代償としては、川向こうの関所への幽閉という措置はいくら何でもあまりにも酷な仕打ちではないか、と私は思います。

 さて、旧鎌倉街道の関門的存在になっていた明大寺城は、軍事的にも経済的にも拠点中の拠点であり、長者として名高い浄瑠璃姫の一族の邸宅もこの近辺、もしくはこの城そのものが邸宅だったのではないかと考えられます。ですから、浄瑠璃姫を弔うための寺「妙大寺」が、ここ(安心院あたり)に作られたのは、ごく自然なことと思われます。明大寺の伽藍の数が複数だったことから考えても、その規模は相当なものであるのは自明であり、もしかしたら明大寺城の一部が寺であった可能性もあります。なぜこれだけの規模、そして重い由来をもっている寺が消失したのでしょうか。

 この妙大寺が打ち捨てられてしまった最大の理由。それは、この地が長年、言わば「修羅の国」状態であったせいではないかと考えられます。岡崎は東海道のできる以前から交通の要所ということもあり、東から西から北から南からの攻撃にさらせされてきた。つまりこの地は戦争が絶えなかった地であったようです。戦争のたび、大規模な目立つ寺院であった妙大寺は狙い撃ちに会い、伽藍は幾度も戦火にさらされたとしても不思議ではありません。つまり、何度も消失を繰り返すこの寺院の再建は、岡崎の財政を逼迫するほどのものだったのではないでしょうか。現代にも言えることですが、豪奢で華美な文化遺産ほど再建にはお金がかかる、というのは世の常です。

 最終的にはこの後に全国制覇を果たすことになる松平氏の台頭が、妙大寺没落の決定打になったと思われます。現在の豊田方面、つまり北の地区から岡崎へ攻め降りてきた松平氏は、まず現在の岡崎城の地にあった北の砦を攻略し、ここを足がかりにして明大寺城を攻め落としたと考えられます。その後松平氏は明大寺城を解体し、本拠地を岡崎城に移しました。前の支配者の匂いを一掃することこそ、新支配体制づくりのはじめの一歩です。

 明大寺城の跡地には、六所神社や浄瑠璃姫関係の寺院・遺構が遺されました。そして何故か、浄瑠璃姫にまつわる遺構の多くは岡崎城に移されます。現在の岡崎城近辺に残る浄瑠璃寺や浄瑠璃姫の墓などは、元々現在の岡崎城内にあったとされています。そして主要道路が新たに東海道として現岡崎城側へ整備されたことを受け、東岡崎駅側の旧市街地はなりを潜め、それと同時に栄華を極めた妙大寺は、明大寺城の解体とともに消え去ったのかもしれません。さらに岡崎の近代化が進み、宅地開発、堤防の整備などによって、元々風化していた浄瑠璃姫の痕跡は次々と移動を余儀なくされたのだと思われます。

 なんだかとても悲しい気持ちになりますが、史跡としての妙大寺(明大寺)の歴史はこのようなところかと思います。しかし、浄瑠璃姫にはまだまだ謎がいくつかあります。私は、この女性の逸話に日本尊と宮簀媛の伝説の類似性を感じずにいられません。どちらも時代は全く違いますが、非常によく似た状況が描かれています。愛知に名高い気高い女性達の不思議な悲恋の物語、今後も探っていきたいと思います。

(文責S)