2017年4月20日木曜日

龍の道とアラハバキ、塞の神 ー六所神社考ー

 名鉄東岡崎駅南口から徒歩5分の場所に、六所神社はあります。ここは徳川家康公の産土神とされ、数年前にはNHK朝の連続テレビドラマの撮影でも使われるなど、岡崎市では知らない人のいないくらい有名な神社です。しかしご祭神はあまり他で見ることのない、ちょっと変わった神様たちが祀られています。

六所神社 ご祭神
塩土老翁神,猿田彦神,衝立船戸神,興玉神,事勝国勝長狭命

 塩土老翁神は、武甕槌(タケミカヅチ)と経津主神(フツヌシノカミ)が諸国平定する際に道案内をした神。道しるべの神であり、製塩の神です。つまり海の神ですね。総本宮は宮城県の鹽竈神社であり、六所境内には鹽竈神社から頂いた桜が植樹されています。
 
 猿田彦神は天照大神に派遣された瓊瓊杵尊の道案内をした神。八咫鏡の元伊勢探しの旅では、猿田彦の子孫である大田命が一行を先導して案内し、五十鈴川の一帯を献上したことが「倭姫命世記」に記載されています。

 衝立船戸神は別名岐の神(クナトノカミ)と言い、外からの悪霊の侵入を防ぐ神。日本書紀や古語拾遺選では猿田彦と同神と言われています。いわゆる塞の神。日本書紀では黄泉比良坂で伊奘冉から逃げてきた伊奘諾が「来るな」と言って投げつけた杖が来名戸祖神(クナトノサエノカミ)となったと書かれているところ、古事記では「衝立船戸神」と書かれています。

 興玉神(オキタマノカミ)はあまり知られていませんが、とても由緒ある神です。伊勢神宮内宮正宮の守護神として正宮御垣内に鎮座されています。猿田彦の子孫で五十鈴川一帯を献上した大田命の別名とも言われます。ちなみに内宮正宮には他に宮比神(ミヤビノカミ:猿田彦の妻である天鈿女の別名という説もある)と屋乃波比伎神(ヤノハヒキノカミ、今回の主役なので後述)の合わせて3神が祀られています。

 事勝国勝長狭命は高千穂に天下った瓊瓊杵尊に笠狭崎で国を譲った神とされています。塩土老翁の別名という説もあります。

 つまり六所神社の本質とは、海運に関わる道を示す神、悪霊が入リ込まないようにする塞の神、いわゆる守護の神としての性質を帯びていることがわかります。海と海運、製塩の塩土老翁、杖から生まれた岐神、五十鈴川の大田命、国津神の事勝国勝長狭命。ご祭神の性質をあげていくと、そこにはある一つの姿が結びつきます。それは「蛇神」の姿です。

 風水や陰陽道に限らず、水と蛇、蛟、龍は非常に親和性が高いものとして古くから認知されてきました。それは荒々しく流れる急流の川や海の様々な生物の姿が龍の姿に比されたからでしょう。事実航海の無事や大漁を祈る神事の殆どは、全国レベルでどこを見ても龍神を祀ったものが多いですし、アニメ千と千尋でも川を神格化した姿が白龍として登場するなど、龍は水場に多く現れます。
 
 大和(奈良あたり)から三河までの行程に船が用いられて来たことは、続日本紀に書かれた持統天皇の死の直前(大宝2年つまり704年)に行われた伊勢、尾張、三河行幸の記述からも見てとることができます。 この際持統天皇は伊勢的潟(湾の地形が変わっているため場所には諸説あり)から船に乗り、三河に入ったとされていますが、その船が到着した場所、というのが、豊川という説もあれば、矢作川河口付近の西尾市あたりから、という説もあります(穂積裕昌著「伊勢神宮の考古学」)。このように、海のルートの玄関口であった矢作川の走る岡崎市にも蛇(龍)の逸話が数多くあります。例えば有名なところでは矢作川と枝流である乙川が合わさる岡崎城のある場所は龍頭と言われ、龍城神社が建てられていますね。 また前回ご紹介した浄瑠璃姫伝説の中にも、蛇の象徴である「笛」が重要なアイテムとして出てきますし、浄瑠璃姫は川に入水自殺を遂げます(笛と蛇の関連性については、民俗学者の谷川健一氏の著書「蛇ー節と再生の民族」の中で指摘されています)。
  矢作川、乙川は古くから水害がひどく、荒ぶる龍の姿が投影されていたとしても不思議ではありません。事実岡崎には籠田、龍城神社、龍海院、竜海、竜美、竜泉、竜谷など、「龍」と名のつく地名が非常に多く、岡崎城から北西に線を伸ばした先には竜神町、南東へ線を伸ばせば行き着く先は竹島の八大龍神社にあたります(日置様、情報心より御礼申し上げます!これが大きなヒントになりました)。ちなみに竜美(たつみ)とは恐らく辰巳の方位とイコールであると考えられます。つまり竜美とは辰巳であり、八大龍のいる南東方向を指すとともに辰(龍)と巳(蛇)そのままの意と考えられます。

つまりまとめると
1. 六所神社には龍にまつわる神、龍を連想させる神が多く祀られている。
2. 岡崎市には龍(竜)、蛇に関わる地名が多い。
3. 岡崎城から龍の地名をつなぐと竹島八大龍神社を先頭にした南東方向のラインとなる。

 さて、この話を一つにまとめるにあたり、無視できない神がいます。それこそが満を持して登場する古代神、アラハバキ(荒脛巾神)です。ここに至るまで長かった。。

 アラハバキは謎の神です。まず祀られている神社が少ないので、色んな人が好きな解釈をしています。しかしどうやらアラハバキは塩土老翁神と関連がある神であることは間違いないようです。鹽竈神社には摂社「阿良波々岐明神社」があります。ここでアラハバキは客人神と呼ばれ、旅人の足を守る「足の神」として尊崇を集めてきたと伝えられています。つまりアラハバキ=荒脛巾と当て字されたのはここらあたりが理由のようですね。

 しかし、陰陽五行の専門家として名高い吉野裕子氏は別の解釈をしています。それはアラハバキという名は「蛇神」を示す、というものです。蛇の古語が「ハハ」と言うことから、ハハキとは「蛇木」であり、古くは直立する樹木を蛇に見立てて祭事を行ったことからこれをアラハバキという、としています。この直立する樹木を神ないし神の依代とみる姿はまさに古神道の神籬(ひもろぎ)の姿であり、私もこの説には賛成です。そしてこの姿はもうひとつ、衝立船戸神の杖ともよく似ています。杖に蛇とくればモーゼが持っていたアロンの杖、その姿も杖と蛇、ですね。モーゼが持つ杖とは生命の木の枝から作られた羊飼いの杖です。日本では羊飼いの杖?ビシッと叩くやつ?となるかもしれませんが、西洋では羊飼いの杖とは権力の象徴です。そして行先を示す神の御使、道しるべなのです。この杖の中の杖、杖オブ杖であるモーゼのアロンの杖には蛇が巻き付いています。これはモーゼが出エジプトの際、エジプトのファラオの前で自分の杖を蛇に変えたことから結びついたものと考えられます。ちなみにこの蛇は毒蛇であり、毒蛇の毒は薬にもなることから、医療のシンボルは杖の周りに2匹の毒蛇が巻き付いた姿で描かれます。要は杖と蛇、という図式は何も日本に限った話ではなく、世界的にあるものですよ、ということです。

 もう一つ、民俗学者の谷川氏はアラハバキの塞の神、エミシの神としての性質を説いています。前述の 阿良波々岐明神社がエミシ制圧の拠点である多賀城のすぐ脇に祀られていることから、エミシの神であるアラハバキをエミシからの威力を避ける政策として祀ったのではないか、としています。事実、玉造柵にも荒脛神社が祀られており、これが防御の役割を示しているとしています。ここからいわゆる現代の塞の神である道祖神へと普及した、というのが彼の説であり、これは衝立船戸神や興玉神の持つ守護の性質と非常によく似ています。

  加えて面白いことに、このアラハバキを祀る神社というのは、多くが近代に名を変えられてしまっているものが多く、アラハバキを祀っている、祀っていた記録の残る神社は、東北、関東、甲信越、三河の順に濃い分布をみせています。三河を除く中部より西には、アラハバキの名を持つ神社だけでなく、祠すらないのです(新人物書庫 古事記日本書紀に出てくる謎の神々内、アラハバキの項より引用)。ただし一箇所を除いて。

 それこそが、興玉神とともに伊勢神宮内宮正宮を守護する
 「屋乃波比伎神(矢乃波波木神)」です。

 内宮で祀られているこの神は、波波木神(ハハキノカミ)、波比岐神(ハヒキノカミ)とも言われ、内宮の南東、つまり「辰巳」の方角に祀られています。吉野裕子氏は、このことからこの波波木神が顕れることを顕波波木神(アラハバキ)としてその姿を蛇神と読んだのですが、これこそが正解なのではないでしょうか。

 そして白川静は、「祀」という字自体を蛇神信仰となぞらえています。「巳(蛇)」を神として祀る姿、それこそが古代祭祀のルーツである、というわけです。

 六所神社で祀られる多くの神。塩土老翁神、猿田彦、衝立船戸神、興玉神、 それら全てがアラハバキの姿と重なる。つまり、六所の本性はアラハバキであり、このアラハバキの本性は龍神なのではないか、というのが私の説です。

  岡崎城のあるあたりが龍頭であり、アラハバキの頭であるならば、竹島の八大龍神社は龍の尾になります。尾が八つの龍、それは八岐大蛇の姿には比せられませんでしょうか。

 スサノオが八岐大蛇を倒した時、尾から出たのが天叢雲剣、つまり熱田の御神体「草薙剣」です。そしてスサノオが大蛇を倒した十握剣、別名天羽々斬剣は、八岐大蛇の尾を咲いた際に尾の中にあった天叢雲剣に当たり欠けてしまいました。なぜ欠けたか。そしてなぜ龍を倒した勝者の剣である天羽々斬が神器となるのではなく、天叢雲剣が玉体の象徴である神器となったのか、それは八岐大蛇の剣が天孫族の持ち得ない技術であった製鉄技術の粋を極めた「鉄剣」だったからではないでしょうか。

 事実、アラハバキは製鉄に関わる神、鍛治神、製鉄神としても崇められています。アラハバキとは荒吐(アラ)吹き(ブキ)に通じ、アラハバキの名のつく神社の側は砂鉄がでるところも少なくありません。伝統的な銅鉱精錬法の最初の段階で鉱石を吹き溶かすことを「アラブキ」といいます。古くは製鉄技術を異人の呪術とみなしていた時期がありました。これの証左となるか、鹽竈神社摂社の阿良波々岐明神社には鋏や鉄製品を奉納する習慣があります。

  尾張物部をはじめとした饒速日一族が本来祀っていた神、それこそがアラハバキという龍神、蛇神だったのか、龍神信仰を持つこの一族自体をアラハバキと呼んでいたのか、それはわかりません。ただ、この岡崎に残る数々の国津神の息吹には龍の痕跡が明らかに残り、その本性はこの謎の神アラハバキとよく似ているのは事実であると思います。

 矢作川から枝流の乙川沿いにかけて、素盞嗚尊(スサノオノミコト)の名を冠した神社が大小合わせて5社、そして素盞嗚尊が祀られた神社が多く存在しています。素盞嗚尊はもともとは父である伊奘諾から海を統治するように仰せつかった神です。矢作川は古くは一色町を流れる矢作古川を整備して今の形となったもので、江戸時代までは非常に水位が高くて深い、船での往来ができるくらいの大河でした。そしてよく氾濫を起こしていました。氾濫を鎮めるため、川沿いに素戔嗚尊が祀られたのか、そもそもこの辺りの一族が国津神の一派であったため、その祖である素戔嗚尊が川の道の拠点に祀られたのか、それはわかりません。ただ、乙川沿いに建つ菅生神社の社殿には、乙川上流にあった素盞嗚神社が川の氾濫で菅生神社まで流れ着き、天王社として合祀することになった、との逸話が残っていることからも、岡崎では荒ぶる川と素盞嗚にも深い関連があることが見て取れます。

 江戸時代までは現在よりもずっと海面が高く、今の名古屋あたりは海の中でした。熱田神宮をはじめ尾張一宮の真清田神社、宮簀媛(ミヤズヒメ)の父である乎止與命(オトヨノミコト)の邸宅があったとされる氷上姉子神社などの主要な神社は、海から見ると海岸線沿いの高台に建てられており、海のルートからその壮麗な姿を権力の象徴として見ることができたでしょう。つまり三河国はつい最近まで水の国であり、一帯を治めていた一族、王家からしたら海のルート、川のルートは非常に重要であり、龍や蛇の信仰が根深く残るには十分な土地であったとしても何の不思議もないわけです。
 
 歴史を考える上で、今の地形をそのまま見ているだけでは歴史はなかなかみえてこないですね。道しるべと言って、それが必ずしも地上の話とは言えない可能性、そして海からの別の勢力の抑えとして龍を塞の神として配置したのではないか、という考察をもって、今回の話を締めくくりたいと思います。

2017年3月30日木曜日

浄瑠璃御前物語考

 「浄瑠璃御前物語」と言われて、あああれね!と気づく人がいたら、その人はかなりの伝統芸能マニアです。私自身、実のところ岡崎に来るまで全く知らんかったし。ただ、浄瑠璃、という言葉を知らない人、聞いたことがない人はほとんどいないと思います。

 浄瑠璃と言われたら、いわゆる人形浄瑠璃などの日本伝統芸能をイメージされるかもしれませんが、もともと浄瑠璃とは、東方にあると言われる薬師如来の「東方浄瑠璃浄土」にちなむ言葉です。「浄」は清らかという意味、「瑠璃」はもともとサンスクリット語のバイドゥーリヤ(漢音写:吠瑠璃)という青い宝石(ラピスラズリもしくはサファイアか)を指し、薬師如来の治める死後の世界(浄土)は瑠璃で豪奢に装飾されている、という考えのようです。だから薬師如来信仰の浄土は、別名「瑠璃光世界」と言われます。

 薬師如来は神道の神々との関連も深く、たとえば神仏習合の折、熊野速玉宮のご祭神である熊野速玉大神に本地仏として与えられたのが薬師如来であり、かの日光東照宮のご祭神である徳川家康(東照大権現)の本地仏も薬師如来です。これは、家康公のご母堂である於大の方(おだいのかた)が、愛知県新城市の鳳来寺の薬師如来を参ったことで家康公を授かった、という逸話から、家康公を薬師如来の化身、としたのだと思います。薬師如来は東方にある浄瑠璃世界にあって衆生の病苦を救う「医王」と考えられていました。単独像として祀られることもありますが、最も有名なのは奈良薬師寺の国宝では薬師如来を中尊に据え、脇侍として「日光菩薩」と「月光菩薩」を添えた薬師三尊として祀られている姿です。

閑話休題。浄瑠璃に戻りましょう。

 伝統芸能の「浄瑠璃」とは、「平家物語」など物語を三味線や琵琶の演奏に合わせて語る「語り物」です。いわゆる霊験譚や民間伝承を法師が楽器片手に語っていたのが浄瑠璃のスタンダードな姿ですが、浄瑠璃が始まりだした鎌倉時代当初は楽器はなく、言葉だけで謳いあげるのが浄瑠璃の姿でした。その古くから語られてきた浄瑠璃の演目で有名なのがこの「浄瑠璃御前物語(浄瑠璃姫十二段草子)」であり、岡崎を舞台としたものです。この曲は広く大衆の支持厚く、語り物全般が「浄瑠璃」と呼ばれるようになりました。

浄瑠璃物語の中身はこんな感じ。

 昔、岡崎の長者であり矢作川沿いに居を構えていた兼高長者は長く子供を授からず、薬師如来に祈ってようやく授かった娘に「浄瑠璃」と名付けます。浄瑠璃姫は16歳の時、奥州征伐の途中で立ち寄った源義経(牛若丸)に見初められ、ほぼ強引に押し切られ、一夜を共にすることになります。次の日義経は早々に旅立つのですが、静岡で大病をし、仲間に置き去りにされます。義経の危機をお告げで知った浄瑠璃姫は彼を助けに向かい、彼女の介抱によって義経は快方に向います。旅立ちの際、義経は彼女に「薄墨」という名笛と麝香(じゃこう)を預け、再会を誓います。しかしその後家に戻った浄瑠璃姫は両親から幽閉され、義経を待つことなく菅生川に身を投げ17歳で亡くなります。その後岡崎の地に戻った義経は既に姫が亡くなったことを知り、姫の弔いに「妙大寺(地名である明大寺はこの名残り)」を建立、そして千本の卒塔婆を立てます。そして姫の両親は、姫の魂の浄化を祈り、矢作町にある誓願寺に十王堂を建立しました。十王とはあの世の入り口の審判をしている10名の裁判官を指し、一番有名なのが閻魔様です。

 ちなみに千本の卒塔婆に経を書き付ける際の墨を擦った硯は自然科学研究機構山手キャンパスの土地に祀られ、現在は硯台という地名でのみ確認することができます。また姫が義経より預かり肌身離さず持っていた麝香は、現三島小学校の敷地内にある麝香池の畔りに麝香塚として祀られました。これも山手キャンパスの隣に位置します。麝香塚は宅地開発で潰されてしまいましたが、塚の石垣は東岡崎駅前東側にある六所神社山道、高宮神社の碑の基礎にされているため、今でも実際に触れて確かめることができます。

 16歳のまだまだ若く、しかも最初は強引に口説かれた美しい女性が男性の危機を救うまでの行為に対し、親の出した結論が幽閉とはなかなか厳しいものがありますし、何より娘の入水後、この両親はお弔いと称し、娘の眠る寺院に十王堂を建てています。十王信仰とは死者が地獄や六道へ堕ちないよう10名の裁判官を祀ることで、できる限りその審判を軽くしてもらおう、というのが主な目的の信仰です。つまりこの両親は、娘が「生前の罪」で六道の輪廻や地獄へ堕ちる可能性がある、と考えているのです。現在十王の名は市役所付近の町名として残っているのですが、その隣町である「六地蔵」という地名もこの十王にまつわる地名です。十王の裁きによって六道に堕ちた衆生を救うため、6つの世界それぞれにいらっしゃるのが6名の地蔵です。結局両親の中では、娘は六道の輪廻に堕ちたと判断されたのでしょうか。彼女の行為がそこまでの罪なのか私には分かりませんが、心から彼女を可哀想だなと思います。

 さて、山手キャンパスのみならず、浄瑠璃姫にまつわる遺構は岡崎市内にたくさんあります。特に十王町にある三河別院の西院は、姫の笛の音を追って辿り着いた義経を姫がもてなした「観月荘跡」と言われ、今でも裏手にひっそりと碑と月を映したであろう大きな亀型の手水鉢が置かれています。

岡崎市十王町にある三河別院西院の裏手にある観月荘跡の碑(左)とその横に置かれたかなり大きな亀型の手水鉢(右)

  義経がここを訪れた時は十五夜であったようで、この手水鉢に映る月を眺める二人の姿はそれは儚くも美しかったことでしょう。この時姫の吹いた笛は義経の名笛「薄墨」であり、これまた幸薄そうな銘なのですが、姫が義経より預かった名笛としてやはり誓願寺十王堂に安置されているそうです。しかし義経の薄墨は、静岡県静岡市清水町にある臨済宗の寺「鉄舟寺(前 久能寺)」に現存しており、こちらはきちんと重要文化財として修復・保存されています。つまりこの浄瑠璃姫伝説自体、別の逸話を義経伝説に置き換えたものか、または完全に後世の創作である可能性もあるのではないかな、とも思います。

 しかしこうして改めてみてみると、岡崎と薬師如来信仰の歴史は思っていた以上に根深そうですね。 何より以前真福寺について書いた際、ご神体は井戸だと書きましたが、この井戸自体が水体薬師、とされています。物部から家康まで、一貫して薬師如来の息吹が残っている上、町の名として十王や六道など、とにかくやたらと黄泉の世界の匂いまで漂うこの岡崎という土地、とってもとっても意味深な場所だと思います。


2017年3月28日火曜日

伊勢ツキヨミ宮の謎

 今回は伊勢の内宮と外宮それぞれの別宮である月読宮(外宮では月夜見宮)の謎に迫ります。とても特別なお宮であり、この宮やご祭神である月読命にはさまざまな憶測や考察がありますが、可能な限り常識にとらわれず、ここでは私達なりの客観的な仮説を提唱したいと思います。

  まずは伊勢神宮について基礎からおさらいしましょう。

  伊勢神宮には内宮と外宮、二つの正宮があります。内宮正宮のご祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)。太陽の神であり、皇室の御祖先としてその名を知らない人はいないでしょう。対して外宮正宮のご祭神は豊受大御神(とようけのおおみかみ)。この神様は日本書紀には登場しない、よくわからない神様です。古事記では「豊宇気毘売神」「等由気大神」などと表記され、天照大御神のお食事を担当される神様、とされています。古事記では、国生み神話の伊奘冉(いざなみ)の尿から生まれた稚産霊(わくむすび)の子と書かれています。しかしこの神様は、出身だけははっきりと明らかになっているところが面白いところで、「丹波国の比沼真名井」つまり現在の丹後半島にある籠神社(奥の院の名が真名井神社)より天照大御神が伊勢探しの旅に呼ばれた、と書かれています。つまり丹後出身のよくわからない神様、なのです。

  日本書紀では伊奘諾(いざなぎ)と伊奘冉の正当な子として、そして古事記では伊奘諾の左目から生まれた太陽の化身として記述される三貴神のひとり天照大御神と、伊奘冉の系統とは言え別の神から生まれたお食事係の豊受大御神が同列に並ぶ、というのはだいぶ違和感があります。歴史学者であり宮司でもある戸矢学氏が著書「ツクヨミ 秘された神」の中で指摘している通り、天照大御神と川を挟んで隣同士に並ぶ神格を持つのは、同じく三貴神であり右目から生まれた月読命(つくよみのみこと)こそふさわしいと思います。しかし何故か、月読命は内宮でも外宮でも別宮扱いであり、完全に独立した形でそっと正宮に寄り添っています。

  月読宮(外宮では月夜見宮と書きますが、どちらもつきよみのみや、と読みますので以降内宮外宮を分ける時以外はまとめてツキヨミ宮とします)のご祭神である月読命は、天照大御神の弟神にあたり、左目から生まれた天照と右目から生まれた月読は、まさに昼と夜、表と裏の関係です。よって伊勢神宮の数ある別宮の中でもひときわ特別な扱いを受けています。

  場所を確認すると、内宮の月読宮は正宮から北へ約2km離れたところにあります。周囲は凸型の下の棒がない、内宮側の底が抜けた形のお濠(ほり)で囲まれています。お濠の一辺は約150m。実はこの月読宮と内宮正宮がある五十鈴川で囲まれた敷地は、サイズ的にちょうど月と地球のサイズ比に一致しているばかりか、距離も月と地球の比と一致するのですが、これって偶然なのでしょうか?

 外宮の月夜見宮は、外宮正宮から北へ約700m離れたところにあり、外宮側へ入り口を向けた、凹の字のへっこんだ部分を取り去った形のお濠で囲まれています。

左図は外宮の月夜見宮、右図は内宮の月読宮(Google Mapより)

 お濠の一辺は約120m。外宮は内宮のようなサイズや距離の不思議は無いものの、正宮からほぼ真北に位置するということは、月夜見宮から夜に正宮をみると、南に入る月が正宮の上に綺麗に見えるであろう配置です。つまり、月夜見宮がその名の通り月を読む、あるいは月を見るという目的で作られた宮であるなら、その姿が正宮の上に上がるこの配置は理に叶っていると言えます。

正宮とツキヨミ宮との位置関係

この内・外宮正宮と二つのツキヨミ宮、どうも一見創建の意味合いが異なっていそうにも見えますが、お濠の凸凹構造にせよ配置にせよ、そもそも月読命を内・外宮正宮に対し同じ配置で祀るということ自体、ツキヨミ宮が正宮と対である確固たる証と言えます。

 この内・外宮正宮とツキヨミ宮の対構造は、本殿の屋根に並ぶ千木(ちぎ)の削ぎ方と鰹木(かつおぎ)の数からもみてとれます。内宮では、正宮、別宮の区別なく全ての本殿を飾る千木は内削ぎで、鰹木は偶数本です。内削ぎの千木と偶数本の鰹木は、一般的にご祭神が女性である場合に用いられます。例えば草薙剣を守る熱田神宮は、日本武尊の妻である宮簀媛の神社であり、この様式を取っています。一方外宮では、正宮、別宮の区別なく全ての千木は外削ぎ、鰹木は奇数に揃えられています。これは一般的にご祭神が男性である場合に用いられている様式です。

 つまり内宮と外宮、どちらも天照大御神(一説には男性説もあり)と豊受大御神(天照のお食事係であり関係は従属的、豊受姫と明確に女性として記載する神社もあり)という女神を祀っている設定であるにも関わらず、社の形態は内宮が女性、外宮が男性と、男女一対になっているのです。さまざまな説があるとはいえ、特に豊受大御神は男神を祀る構造を取る外宮正宮のご祭神には馴染まないのではないかと思われます。もっと言うなら、この豊受大御神は古事記のみ明記している神であり、日本書紀には登場しないくらいの神様です。さらにこれは伊勢神宮の最大の謎と言ってもいいのですが、三種の神器のひとつとされる八咫鏡をご神体とする内宮に対し、外宮のご神体は何なのか明らかにされていないのです。これはあまりにも内宮と外宮で差が大きいと言わざるを得ません。

 この豊受大御神にも、天照の弟神である月読命が組み合わされているのが妙ではないですか。天照、月読、素戔嗚は伊奘諾から生まれたれっきとした三貴神です。伊勢に素戔嗚が皆無なのも気になりますが、何よりまず月読が内宮と外宮でダブルブッキングしていること自体、めちゃくちゃ謎じゃないでしょうか。

  そこでここからが本題です。今回は仮説を超大胆に展開していきましょう。

 日本では古来より二元論で物事が考えられてきました。太極図に代表されるように、陰と陽、月と太陽、男と女、暗と明、内と外、など、全ては表裏一体、ふたつでひとつの形を取ります。神様もしかり。古事記ではまず天地開闢の際に現れたのが天之御中主神(あめのみなかぬし)で、その後より高御産巣日(たかみむすび)、神産巣日(かみむすび)の二神がセットで現れます。つまりこの造化三神と呼ばれる三神の最初の一人から伊奘諾・伊奘冉に到るまで、つまり三貴神の現れる前までは、ほぼ神は対で現れます。これらは常にふたりでひとつという考え方です。内宮と外宮というコンセプトも、これとほぼ同じ考え方でつくられたからこそ、同じような構造で建てられ、一方を女神、もう一方を男神として作ったのではないでしょうか。
 
 つまり私たちは、外宮のご祭神とされる豊受大御神の本性、それは男神なのではないか、と考えているのです。そしてその対である外宮のツキヨミ宮には女神、内宮のツキヨミ宮には男神が祀られているのではないでしょうか。千木、鰹木の性質を正宮にのみ信頼した場合、この仮説は成立します。つまり構造的には内宮・外宮が男女であるが、そのご祭神も男女ペアになっているのではないですか、というのが今回一番の仮説なのです。
 
 ちなみに、内宮側の月読命は男神であると皇太神宮儀式帳に記述があります。皇太神宮儀式帳によると、月読命のお姿は馬に乗る「男」の形であり、紫の衣を羽織り、金の剣を持つと書かれています。つまり内宮では純然たる設定として月読命は男神なのです。しかし何度も言いますが、内宮の月読宮は千木も鰹木も女神仕様であり、記述に反します。もちろん月読命は女神である、という解釈もあります。

 よく考えてみると、上記の月読命のお姿は天皇や天皇に並ぶくらいの高貴な血筋の人のお姿を比しているのではないか、と考えられます。紫とは、佐賀の吉野ヶ里遺跡から紫に染められた繊維が出土するなど日本では古くから使われていた色です。しかし小さな貝から取るので非常に手間がかかり高価な色として知られています。つまり高貴な身分の人物しか持ち得なかったものです。8世紀の律令制で明確に禁色が設定され、特に紫は親王・諸王・諸臣三位以上しか持つことが許されない色とされてきたことが知られています。紫が天皇の色と印象付けた代表的な歌がありますね。

額田王から大海人皇子(天武天皇)へ詠んだ恋の歌
「あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」
対して大海人皇子はこう返します
「紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我れ恋ひめやも」

あなたが私に向けて手を振る様を野の番人が見やしないでしょうか と言う額田王に、紫のように美しい貴女を憎いと思うなら、人妻なのにどうして恋などするだろう  と天武天皇が返します。

 紫は天皇かそれに相応する身分を現す証であり、高貴な色であることがよく分かる歌です。このように紫の衣を着た金色の剣を佩刀する馬に乗る男性って、天皇とまではいかなくても親王以上の身分の人を指しているのではないでしょうか。そう思ってしまうくらい、内宮の月読命の説明は生々しく具体的です。しかも、これは戸矢学氏も指摘していますが「月読命」は月を読む神と書き、そもそも月そのものの神(月神)とは書かれていないのです。月を読むとは暦を読むこと、暦に精通していた上、古事記の記載内容に指示を与えることができた位の高い御仁って、年代的にも立場的にも「天文遁甲を良くした」あの天皇そのものであると思うのですがどうでしょうか。

  しかし、そもそも神様に性別を割り当てることは考えてみれば妙な行為です。神である限り、両面性があっても不思議ではありません。天照大御神は一般的には女神とされていますが、男神であるという考えを持った学説もあります。もっと言えば、内宮側のツキヨミは月読ではなく素戔嗚なのかもしれません。三貴神を同格と扱うなら、素戔嗚の可能性もあるわけです。事実、月読命と素戔嗚は逸話が重なっているものが多く、そうなると月読命は素戔嗚尊と裏と表、または女と男の関係とも言えるかもしれません。こう考えると、そもそも豊受大御神とは天照大御神の裏の顔、つまり素盞嗚を暗に示した可能性だってあるのではないでしょうか。三貴神の中でも特に出雲との関わりがあるなど、国津神の性質を色濃く持つ素盞嗚を外宮へ大々的に明記するわけにはいかなかったから、あえて豊受大御神という豊穣の神、いわゆる地球や大地そのものの国津神の象徴として比したのでしょうか。全くもって分かりません。しかし、もし仮に素戔嗚尊だとすると、丹後籠神社から来た国津神、という設定は合うと思いますし、何より天津神に対する国津神、という対も成立すると思うのですが、どうでしょうか。

 白川静が説いた神の勅を納める箱を意味する象形文字「サイ」の形にも似たお濠に囲まれる2つのツキヨミ宮。そのお濠が、一方は凸の字に似ており、他方が凹の字に似ているのは偶然なのでしょうか。お濠を字に見立てれば、内宮は男、外宮は女であるというのは大胆すぎる仮説でしょうか。もしそうなら、豊受は天照と表裏の関係、男性女性の関係、夫婦の関係、を表していると考えるのが自然だと私たちは考えるのです。

 結局のところ、外宮の豊受大御神、あるいはご神体の謎が解かれないままでは、2つのツキヨミ宮の謎は謎のままなのです。

 さらなる歴史の冒険が必要なようですね、難しいなあ。


2017年3月26日日曜日

明大寺とは何か

 愛知県岡崎市には、今はもう残っていない二つの大寺院の名跡があります。

 ひとつは東岡崎駅あたりに残る、明大寺(妙大寺)という地名。明大寺は町の名前として残っています。明大寺の町域の広さから考えると相当重要な寺であったと考えられますが、今はその伽藍の痕跡もありません。つまり、名前だけがあって肝心の寺自体の痕跡が全くわからない状態です。でも、明大「寺」って言うくらいだから、そういう名前の寺院がこの辺にあったのは間違いなさそうです。

 そして前に記事にした北野廃寺。北野廃寺は明大寺と異なり、寺の基礎が現存していることから、創建年代や規模などを今でも伺い知ることができます。北野廃寺の創建はとても古く、飛鳥時代にまで遡る上、その規模は大阪の四天王寺級の巨大な寺であったこと、そして創建には聖徳太子が関わっていたようであることなどが分かっているのですが、こちらは肝心の寺の名前が不明な状態です。北野という地名に残る寺院跡、だから北野廃寺。北野廃寺という寺名ではないわけです。

考えてみたらとても不思議じゃないですか。
片や名前だけが残り痕跡のない「明大寺」。
片や痕跡はあるけど名前のない「北野廃寺」。
この二つの寺跡、実は不思議な糸で繋がっているかもしれません。

  明大寺の由来は下記のリンク先にとても詳しくまとめられています。
http://www.okazaki-renaissance.org/discover/show/3

 このHPによると、明大寺はかつては「妙大寺」として存在したそうです。そしてこの妙大寺建立の歴史は全て源義経(牛若丸)と浄瑠璃姫の物語が軸となっています。

以下引用。

“承安4(1174)年、浄瑠璃姫が16歳の春のこと、牛若丸は身分を隠して、京都の鞍馬から奥州の藤原秀衡の元へと向う旅に出ました。その道中に、矢作の宿を訪れたのです。都を懐かしむ牛若丸の耳に、浄瑠璃姫の奏でる琴の調べが聞こえ、牛若丸は琴の音にあわせて手持ちの笛「薄墨(うすずみ)」を吹いたのでした。それがきっかけとなり、姫は牛若丸を屋敷に招き寄せ、二人は出合い、惹かれ合う仲となりました。その後、牛若丸は再び姫の屋敷を忍び訪れ、拒む姫を口説き落として一夜を共にし、その翌朝、奥州へと旅立っていったのでした。
 ところが、牛若丸が静岡の吹上の浜(静岡市清水区蒲原)まで行ったところで、瀕死の大病を患い、浜に棄てられてしまいました。それを牛若丸の守り神のお告げを聞いた浄瑠璃姫が助けに行きました。二人は再会を果たし、浄瑠璃姫はそこで牛若丸から彼の素性を明かされます。別れ際に、互いに形見を交換し、牛若丸は再び東方を目指し、浄瑠璃姫は矢作へと帰っていったのでした。

中略

 吹上の浜から矢作に帰った浄瑠璃姫は、母から家を追い出され庵に幽閉されてしまいます。義経との再会を心の支えにしてすごしましたが、ついに悲嘆にくれて乙川に身を投じてしまいました。その後、義経は軍勢を率いて上京の途中、姫を訪ねますが、姫は既にこの世にはいないことがわかり、姫の供養のために墓所を訪れます。すると供養塔の五輪が割け、そこから姫の魂が飛び出し天に昇って行ったとのことでした。”

 つまり、義経への思いを募らせている上親から関係を咎められ、屋敷へ幽閉された浄瑠璃姫は矢作川の浄瑠璃が淵で入水自殺。そして後に浄瑠璃姫が亡くなったことを知った義経が建てた寺こそ妙大寺だとのこと。ちなみに近隣の地名となっている千本とは、義経が彼女のために千本の卒塔婆を建てたから付いた名であるとしています。この妙大寺は多数の伽藍からなる大きな寺であったと言われており、その規模の大きさは、寺の痕跡が残っていないとしても地名として現存する明大寺地区の広さからみても、そして千本もの卒塔婆を建てたという逸話からも、女性の悲恋物語には過度なレベルの弔い方だと言わざるを得ません。

 しかも、この浄瑠璃姫のご両親は彼女の弔いのために「十王堂」まで建てています。悲恋に散ったうら若いひとりの女性の弔いに「十王」とは、なかなか穏やかではありません。

「十王」とは、地獄の10名の裁判官的な神様を指します。中でも最も有名なのは閻魔様です。十王信仰は、全ての生けるもの(衆生)はみな、初七日 から四十九日、百か日、一周忌、三回忌には、順次十王の裁きを受けるという信仰で、生前にこの十王を祀ることで、死んだ後もこの裁判での罪を軽減してもらえるという考えが元になっています。十王は死者の罪によって地獄へ送ったり、六道への輪廻をめぐらせるなど、大変怖い存在として認知されていました。そしてこの十王のひとりである閻魔様の部屋に飾られている、人の善悪の全てを包み隠さず映してしまう、審判の一番キモになる鏡の名こそ他ならぬ「浄瑠璃鏡」と言うのは、果たして偶然の産物なのでしょうか。

 つまり、この浄瑠璃姫物語、よく考えるといくつか疑問が残るのです。

1. 妙大寺の場所はどこか。
明大寺として残る町名は広範囲に及ぶにも関わらず、その跡地は不明。

2. 不自然なくらいの巨大な寺がなぜ消失したのか。
うら若い女性の悲恋の物語に不釣り合いなほどの規模の寺院の可能性。

3. 娘の死に際し、十王を祀った親の真意は何か。
彼女の幽閉と十王の性質から考えて、浄瑠璃姫の両親は彼女の所業を「罪」と思っていた可能性が高い。源氏の大将の弟君である義経から見初められたというのは、一地方の姫にとっては名誉なことでありこそすれ、そこまでの罪とみなされる原因とは思い難い。

 4. 浄瑠璃姫の遺物や痕跡は岡崎中に点在している。各所から見えるものは何か。
まずは浄瑠璃姫の痕跡をざっとリストアップしてみましょう。
① 浄瑠璃姫の墓(康生町)
岡崎城は現在の岡崎城よりもはるかに広く、浄瑠璃姫が幽閉されていた草庵の跡地もその敷地内にあった。その場所には浄瑠璃姫を弔った寺があったとされ、浄瑠璃曲輪と呼ばれていた。浄瑠璃姫の墓はいまは国道1号線沿いに岡崎城の外に移されている。浄瑠璃姫の侍女の墓という説もあり。
② 成就院(吹矢町)
浄瑠璃姫が入水自殺をした場所は浄瑠璃が淵と呼ばれている。入水前に着替えをした祠には観音像があったとされる。浄瑠璃が淵が堤防整備とともに取り壊されたとき、穴観音にあった観音像はすぐ近くの成就院に移された。
③ 誓願寺(矢作町)
浄瑠璃姫の父である兼高長者の家があった場所、すなわち浄瑠璃姫の生地。義経が浄瑠璃姫との宴会にて吹いたとされる薄墨の笛が安置されている。
④ 浄瑠璃寺(康生通西)
元々岡崎城内で姫の幽閉されていた草庵跡である。浄瑠璃姫の墓とよく似た痕跡であるが、浄瑠璃という名のつく寺はここだけである。
⑤ 六所神社(明大寺町)
現在の六所神社の参道にその名のみ残されている神社が高宮神社。大正時代、六所神社の替わりに短期間使用された名前。三河へ戻った義経が姫の愛した麝香(じゃこう)を祀ったとされる麝香塚を形作っていた石は、高宮神社の名を示す石塔の礎石として使用されている。これが大正時代のことだから、明治には麝香塚はまだ存在していたと考えられる。
⑥ 三河別院(十王町)
浄瑠璃姫が義経のために観月の宴を行ったところとされる。
⑦ 三河善光寺/無量寺(久後崎町)
妙大寺のご本尊であったとされる馬頭観音像を安置している。この寺は元々殿橋の南側にあったが、川の氾濫がよく起きていたため現在の位置へ移築されたとのこと。明大寺及び明大寺城の廃止の一因も風水害だったかもしれない。善光寺の名が示すように、本多氏が建立した寺である。
⑧ 麝香塚(明大寺町)
浄瑠璃姫の遺物である麝香を安置していた場所。大正時代の宅地開発によって消失。現在は明大寺町字麝香塚という名称のみ残っている。
⑨ 硯田(明大寺町)
 浄瑠璃姫のための千本卒塔婆の文字を書くために使われた硯を埋めた場所とされる。恐らくはこれも大正時代の宅地開発によって取り壊されたと思われる。旧愛知教育大のグラウンドとして使用された場所で、現在は自然科学研究機構のキャンパスになっている。
⑩ 麝香池(明大寺町)
浄瑠璃姫の遺物である麝香を安置していた場所。三島小学校の裏池となっている。
☆ その他の手がかり
・吉祥院(明大寺町):万燈山と呼ばれる高台にある寺。妙大寺の伽藍の一部とされる。
・千本(明大寺町):麝香池からみて北側の旧地名。千本卒塔婆の場所。
・安心院(明大寺町)
度重なる兵火のため明大寺は衰退。安心院の草庵だけが残ったと伝わっている。安心院に残る十一面観音は、牛若丸から浄瑠璃姫へのプレゼントという言い伝えがある。妙大寺跡地として最有力候補か。

 ひとつ重要なのは、当時の主要道路は東海道ではなく、旧鎌倉街道であった、ということです。現在は東海道こそが主要道路であることだけが見えていますが、東海道から見て川向うにあたる東岡崎駅側、つまり明大寺町の側にこそ、当時の主要道路である旧鎌倉街道は走っており、そこが岡崎のセンターだった時期がある、ということです。

 家康公の血筋である松平氏が台頭する以前、この地は西郷氏が支配しており、明大寺側に城があったことがわかっており、これは街道が明大寺側にあったこととも符合します。その城の名前こそ、現六所神社から川沿いまで広がっていたと思われる「明大寺城」です。西郷氏あるいはそれ以前の支配者は、この明大寺城あたりを根城にしていたと思われます。六所神社の裏から今でも見ることができる積み上げられた石垣は、もしかしたら明大寺城の遺構であるかもしれない。ちなみに六所神社の宮司さんのお話でも、六所神社が元々城内に建っていたと伝わっているそうです。
 
 では現在の岡崎城は一体何か。ここは、矢作川と菅生川(乙川)の合流地点であり、海運の要所と考えられます。つまりここもまた岡崎の要所と言えば要所です。しかしいわゆる関所に浄瑠璃姫は幽閉されたのです。男性からの申し入れを受け入れたとはいえ、最初は拒んだ気高い姫のたった一度の恋の代償としては、川向こうの関所への幽閉という措置はいくら何でもあまりにも酷な仕打ちではないか、と私は思います。

 さて、旧鎌倉街道の関門的存在になっていた明大寺城は、軍事的にも経済的にも拠点中の拠点であり、長者として名高い浄瑠璃姫の一族の邸宅もこの近辺、もしくはこの城そのものが邸宅だったのではないかと考えられます。ですから、浄瑠璃姫を弔うための寺「妙大寺」が、ここ(安心院あたり)に作られたのは、ごく自然なことと思われます。明大寺の伽藍の数が複数だったことから考えても、その規模は相当なものであるのは自明であり、もしかしたら明大寺城の一部が寺であった可能性もあります。なぜこれだけの規模、そして重い由来をもっている寺が消失したのでしょうか。

 この妙大寺が打ち捨てられてしまった最大の理由。それは、この地が長年、言わば「修羅の国」状態であったせいではないかと考えられます。岡崎は東海道のできる以前から交通の要所ということもあり、東から西から北から南からの攻撃にさらせされてきた。つまりこの地は戦争が絶えなかった地であったようです。戦争のたび、大規模な目立つ寺院であった妙大寺は狙い撃ちに会い、伽藍は幾度も戦火にさらされたとしても不思議ではありません。つまり、何度も消失を繰り返すこの寺院の再建は、岡崎の財政を逼迫するほどのものだったのではないでしょうか。現代にも言えることですが、豪奢で華美な文化遺産ほど再建にはお金がかかる、というのは世の常です。

 最終的にはこの後に全国制覇を果たすことになる松平氏の台頭が、妙大寺没落の決定打になったと思われます。現在の豊田方面、つまり北の地区から岡崎へ攻め降りてきた松平氏は、まず現在の岡崎城の地にあった北の砦を攻略し、ここを足がかりにして明大寺城を攻め落としたと考えられます。その後松平氏は明大寺城を解体し、本拠地を岡崎城に移しました。前の支配者の匂いを一掃することこそ、新支配体制づくりのはじめの一歩です。

 明大寺城の跡地には、六所神社や浄瑠璃姫関係の寺院・遺構が遺されました。そして何故か、浄瑠璃姫にまつわる遺構の多くは岡崎城に移されます。現在の岡崎城近辺に残る浄瑠璃寺や浄瑠璃姫の墓などは、元々現在の岡崎城内にあったとされています。そして主要道路が新たに東海道として現岡崎城側へ整備されたことを受け、東岡崎駅側の旧市街地はなりを潜め、それと同時に栄華を極めた妙大寺は、明大寺城の解体とともに消え去ったのかもしれません。さらに岡崎の近代化が進み、宅地開発、堤防の整備などによって、元々風化していた浄瑠璃姫の痕跡は次々と移動を余儀なくされたのだと思われます。

 なんだかとても悲しい気持ちになりますが、史跡としての妙大寺(明大寺)の歴史はこのようなところかと思います。しかし、浄瑠璃姫にはまだまだ謎がいくつかあります。私は、この女性の逸話に日本尊と宮簀媛の伝説の類似性を感じずにいられません。どちらも時代は全く違いますが、非常によく似た状況が描かれています。愛知に名高い気高い女性達の不思議な悲恋の物語、今後も探っていきたいと思います。



2016年12月22日木曜日

冬至

 とうとう今年も終わりが近づいて来ました。この原稿を書いている22日は、一年を24に分割した二十四節気のサークルの、ちょうど270°にあたる場所にくる「冬至」にあたります。冬至は二十四節気の第22番にあたり、一年のうちで陽の出ている時間が一番短い日として皆様もよくご存知かと思います。しかし冬至というのは、それだけではない実は重要なランドマークなのです。
 現在の節気を決めている「定気法」は、太陽の天球上の通り道である黄道と赤道の交点である春分点を基点として24等分し、導き出された15°ごとの黄経上の特定の角度を太陽が通過する日に節気と、一年のキーとなる節気をあつめた中気を交互に配置しています。この性質から、定気法は「空間分割法」と呼ばれています。

 さらに、二十四節気を配置する方法にはもう一つ「平気法」があります。こちらはまさに冬至を基準点とし、今年の冬至から来年の冬至までの時間を24分割して導き出します。導き出された約15日ごとの分点に節気と中気を交互に配置するため、「時間分割法」とも呼ばれています。つまり、この「空間(定気法)」と「時間(平気法)」が一致するのが、一年で唯一この「冬至」というわけです。
 ちなみにインドを含む西洋では獣系の星座のラインを黄道で12分割する黄道十二宮が採用されており、冬至から大寒までのこの時期太陽はこの磨羯宮(まかつきゅう)すなわち山羊座に留まるため、この時期生まれは山羊座になりますね。山羊座のシンボルは上半身が山羊で下半身が魚なのですが、実はこの磨羯とは山羊を指すものではなく、インド神話の中の「マカラ」という魚の化け物がなまった名であることをご存知でしょうか。ギリシャから西洋占星術がインドへもたらされた時、山羊座のシンボルにインドの化け物があてがわれたのでしょうね。日本では既に平安時代には暦を司る宿曜道の中に磨羯宮の名が入ってきており、さらにその後は密教へも思想が取り込まれていきます。日本古来からの伝統に、ギリシャからインドを経由したオリエンタルな思想が基盤となっているなんてなんて素敵な世界なんでしょう。

2016年11月17日木曜日

真福寺

 前回は北野廃寺跡を取り上げ、この場所が推古天皇期と非常に古いものであること、建立に聖徳太子が関わっていること、聖徳太子が建立した最大・最古の寺院である四天王寺と同規模・同時期の寺院であったこと、そして太子の仏教普及活動の障害として立ちはだかり、最期は太子と蘇我氏に討たれた物部守屋が祀られた寺院であったことを書きました。今回はそんな曰く付きである北野廃寺跡と同様、物部氏と非常に縁深い史跡である真福寺にスポットを当てたいと思います。
 真福寺は、岡崎市真福寺町にある天台宗の寺院で、正しくは「靈鷲山降劔院真福寺」と書きます。聖徳太子が開基したとされる46箇所の寺院のうちのひとつで、物部守屋の息子である物部真福(まさち)の願いから推古天皇2年(594年)に造られたと伝わっています。本寺院の御本尊は通称水体薬師という名のついた薬師如来と言われていますが、御本尊の本来の姿が井戸であることは、あまり知られていません。太子と蘇我氏に討たれて敗走中の物部真福が、山中でここにこんこんと湧く泉を見つけ、これを御神体として祀ったことが最初のようで、今でも真福寺のお堂の真ん中に祀られているものはこの井戸そのものです。つまり寺と銘を打っていますが、その真の姿は正に自然神を祀る古神道そのものであり、さすが神祇を司る物部氏と言わざるを得ません。
 また祀られているのは水だけでなく、真福寺では「八所神社」という名の神社も併設されています。この八所神社には奥の院があり、拝殿からさらに山を登った先に社があるのですが、本来はここに祠があったそうです。その祠がいつからあったのかは全くわからず、少なくとも寺が建立される以前には祠があったことがわかっています。面白いことに主祭神は迦具土神(カグツチ)、つまり火の神であり、寺の御本尊である井戸(水)とは対を成しています。このように火と水を合わせて祀る姿は、伊勢神宮の皇大神宮(内宮)と外宮の対の姿に代表される、太陽と水を神と仰ぎ豊穣と安寧を祈る原始宗教の姿そのものです。そしてこの姿は何も日本に限ったことではなく、拝火教であるゾロアスター教の原型ミトラ教や北欧神話など、いわゆるキリスト教の普及以前のアミニズム信仰の形にもみることができます。
 さらに加えて、他祭神としていわゆる天孫系ではない出雲系の素戔嗚と大国主が合祀されていること、カグツチの表記が海外向け歴史書である日本書紀の表記「軻遇突智」ではなく国内向け歴史書である古事記の表記「迦具土」であること、境内に磐座として用いられたと推測できる巨石群が散在していること、などを総じて考えると、この岡崎という土地の神とは、天照大神に代表される天孫族の系譜の神々ではなく、古来より日本に定住していた、いわゆる日本土着の出雲系の神々が支配していた土地であると推察されます。これは、尾張氏の総社である尾張一宮「真清田神社」が祀る主祭神が、天孫族の祖であり日本へ最初に降り立ったとされる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)ではなく、彼より前に日本へ降り立った瓊瓊杵尊の兄、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)であることからも、容易に想像ができます。
 物部氏の氏神はまさに饒速日命であり、饒速日命の子で物部氏の祖とされる宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)が物部の長の証として佩刀していた剣が、霊剣布都御魂劔(ふつのみたまのつるぎ)です。劔を振ると「フッ」と風を切る音がするくらい鋭かったためこの銘がつけられたといわれるこの劔は、現在奈良県天理市の石上神宮の御神体として祀られています。この石上神宮は劔の神社と言われ、草薙剣を含めた日本の霊剣・神剣の魂が一斉に祀られている神社であり、かつて物部氏の武器庫であったと考えられています。
 ここで最初に述べた、真福寺の真の名「靈鷲山“降劔院”真福寺」を思い出してください。なぜ“降劔院”なのか寺の住職さんに訪ねたところ、昔本当に劔が奥の院に収蔵されていたことがわかりました。そしてその後、劔は三河富士として知られる村積山の山頂にある村積神社へ遷されたそうです。現在劔は岡崎市の所蔵となり、どこかで保管をされているそうですが、その行方は知る術がありません。
 ここから先はあくまで私見ですが、私はどうしても想像せずにはいられないのです。物部守屋は物部氏の総大将でした。太子と蘇我に討たれた総大将亡き後、物部の総大将は息子である真福が継ぎ、総大将の証である劔は真福の手に渡ったのではないか。そして敗走する真福が終の地として天神山へたどり着き泉に救われ、長の証の劔そのものを祀った(隠した)のではないか。すると、もしかしたらこの地に祀られた劔こそ、伝説の霊剣布都御魂劔だったのではないか。
 この劔が本当に現存するのか、それすら確認する術が無い以上、全ては憶測でしかありませんが、そんな想像を膨らませずにはいられない、とても不思議で面白い経緯を持つ史跡がこの岡崎にはあることを、私は皆さんに少しでも知ってもらいたいと思います。

2016年11月16日水曜日

北野廃寺跡

 岡崎に来てからもうだいぶ経つのですが、歴史的に古いと言いつつも、この土地の歴史は殆ど徳川家康以降のものしかきちんと伝わっていないように思います。つまり、徳川家康の誕生の前にも連綿と歴史は続いていた訳で、では徳川以前の動向は果たしてどうなっていたかというと、実はわかっていないことの方が多いことを皆さんはご存知でしょうか。
 一つ例を挙げると、私たちが日々暮らしている「明大寺」と呼ばれる場所は、かつては「妙大寺」という名だったそうです。いつ、どういったタイミングで名が付け替えられたのかは、実はよくわかっていません。しかし重要なのは名前がどうして変わったか、ということだけではありません。「寺」と付くからにはどこかにお寺があったはずなのに、この明大寺近辺にはその名を冠する寺は一向に見当たりません。どこへ行ったのか、図書館へ行って岡崎の歴史を調べても、その記述は見当たらないのです。これはとても不思議なことです。
 この明大寺の不思議のように、岡崎には実は「よくわからない」寺社仏閣、史跡が数多くあります。今回はその中でも最大級、私の中では最も謎な場所である「北野廃寺跡」について書きたいと思います。
 北野廃寺跡は、東岡崎の北にある大門から矢作川を挟んで西側にある、北野に位置する古代寺院跡です。この史跡は既に何度も発掘調査が入り、出土物から飛鳥時代(7世紀)の創建から平安中期の廃絶(10世紀)にかけて、約3世紀にわたり岡崎の地にあったものと考えられています。しかもこの寺、聖徳太子が建立した日本最古の仏教寺院のひとつである四天王寺と同様の伽藍配置(南北に南大門、中門、塔、講堂が一直線に並ぶ様式)を取る上、法隆寺の五重塔よりも規模が大きい五重塔が建っていた痕跡が残っています。つまりこの寺は、建立が日本最古のレベルで古く、規模は当時でも最大のものであった可能性があります。しかしとても不思議なのは、この寺がなんという名の寺だったのか、その名が記録に残っていないのです。
 この廃寺跡はもともと物部氏の氏寺であると言われており、それを裏付けるように岡崎には他にも岩津の真福寺など、物部ゆかりの寺があります。しかしここで疑問なのは、そもそも物部氏というのは神道にゆかりのある氏族です。物部守屋は、国家的な仏教の普及を推進する蘇我氏に対抗して殺されました。つまり、根っからの神道一家だった物部が、どうして氏寺を持っていたのでしょうか。さらに言うなら、どうして大和朝廷のある近畿から離れたこの岡崎に物部の氏寺が建立されたのでしょうか。残念ながらこの謎に答えてくれる文献は残存していません。
 私は最近、とある縁によって岡崎の歴史を調べていくことに深く関わるようになりました。この北野廃寺跡だけでも少ない紙面では到底伝えきれない、まだまだたくさんの不思議があります。そして、この岡崎自体には、実は歴史の波に埋もれた、非常に興味深い歴史を持った多くの場所があります。私もまだまだ手探りの状況ですが、もしどなたか足を運ばれた方、もしくは先祖代々こちらにお住いの方で、何か気づいたこと、知っていることなどありましたら、ぜひ坂本にご教授を頂けましたら幸いです。

2016年11月14日月曜日

神明宮

伊勢神宮と岡崎との繋がりはとても強い。

 下図はGoogleMapで「神明宮」を検索したものである。神明宮が岡崎とその周辺に集中しているのが見てとれる。

 神明宮あるいは神明社は伊勢神宮内宮を本社にする神社だ。全国各地に拡がっているが、ここまで集中しているのは、この地域特有の現象のようである(神明神社)。

 ちょうど岡崎の六並びの海への入り口にあたる知多半島先端の神明宮が印象的である。知多の神明宮では伊勢神宮御遷宮の際、御古材が下賜され20年ごとに遷宮が行われている。

 能見の神明宮は、元稲前神社と言われており、祇園祭風のお祭りが盛大に開催される(能見神明宮大祭)。

2016年11月13日日曜日

岡崎の六並び

以下「岡崎の六並び」からの転載。


 最近気がついた。僕たちが居住する愛知県岡崎市に『数字の六』に因んだ地名が並んでいる。意味のあるなしは別として、とても面白いのでご紹介する。

 六に因む地名は、岡崎市の南西から北東に向かって一直線に並ぶ。

 南西端は、『六ツ美』。六ツ美は岡崎市の穀倉地帯で、田園風景が美しい。六ツ美という町名はないが、地区の小学校や中学校の名称から、その一帯が古くから六ツ美と呼ばれているのが確認できる。小学校だけでも西部小、北部小、南部小と広大な町域をもつ。

 六ツ美地区から北東へ進むと、『六名』。『むつな』と読む。六名が入った町名が名鉄東岡崎駅とJR岡崎駅の間に五つもある。六名本町、六名新町、六名東町、六名南、そして六名町。これまた六名地区と呼ぶべき広大なエリアだ。

 さらに北東に進むと、徳川家康の産土神として江戸幕府の手厚い保護を受けた『六所神社』。六所神社から乙川(おとがわ)の川向こうには『六地蔵』という小さな町がある。

 その次は『六供』。岡崎のほぼ中央部、名鉄東岡崎駅からちょうど真北に位置する古い市街地である。六供と書いて『ろっく』と読む。六供も広い町域を持つエリアである。

 六供からさらに北東方向に直線を延長させる。東名高速を越えた辺りに『抱六岩』という珍しい町名。『ほうろくがん』と読む。そして、岡崎を抜けて豊田市に入ったところで、『六所山』の文字。徳川家の始祖、松平家発祥の地である。

 つまり、六所山を北東端として、抱六岩~六供~六地蔵~六所神社~六名~六ツ美と、一直線に『六』が並んでいる。これが、岡崎の六並び。






 なぜ、岡崎に六の数字が並んでいるのか。単なる偶然の産物かもしれない。が、簡単に偶然の産物と片付けてしまっては面白くない。ここからは僕たちなりの想像力を膨らませての謎解きだ。

 ヒントは稲前(いなくま、いなさき)神社。抱六岩と六供地区の中間地点に位置する神社である。古くはその年一番の稲を刈り取って、まずは稲前神社の神倉に運び置き、のちに伊勢神宮に送ったという伝承がある。古来伊勢神宮は日本全体の鎮守として全国から崇敬され、神道の最高神であった。特に絶大な権力が朝廷にあった頃は、伊勢神宮が自ら直轄領を取り仕切っていた。岡崎の地も天神山と称えられており、伊勢神領に属していたらしい。つまり、僕たちのアイデアは『伊勢神宮』説だ。岡崎の六並びを南西に延長して海を越えたところに、ちょうど伊勢神宮が鎮座している。




 では、なぜ伊勢神宮の北東方向に六の数字か。想像力をさらに膨らませよう。六は古くから魔除けに用いられてきた数字とされる。六角形を基調とした籠目という文様がある。竹編みの籠の編み目を図案化したもので、魔除けとしてこの図形を用いる。六角形の亀甲模様も同じ意味で古くから使用する。六角形という形状はハニカム構造とも呼ばれる物理的に非常に強い特質を持つことから、敵から防御するという意味合いを自然と含んだのだろう。現在に残る痕跡としては、伊勢神宮周辺にある石灯籠に籠目印が刻まれているのが有名である。また伊勢神宮のお守りには、珍しい六角形の形状のものがある。北東の方角とは、悪しき者がやってくるという『鬼門』にあたる。岡崎は伊勢神宮からちょうど鬼門の方位だ。古代人が、伊勢神宮が岡崎を神聖な場所として直轄領とし、六という数字を配して鬼門を守ったのではないだろうか。

 ここまで辿り着いたら、想像ついでにあと一押し。岡崎市籠田町の籠田公園。六供のすぐ南西に位置するこの公園は岡崎のあらゆる祭り事が集中する都市公園。岡崎にとっては、「へそ」と言っても過言ではない重要なポイントだ。もし籠田の籠が、籠目の六を意味しているのなら、六の田んぼだ。さらにだめ押しするなら籠田公園のすぐ北東には亀井町がある。六角形が基調の亀甲模様。もし亀井の亀が六を意味しているのなら、六の井だ。田からは人が生きていくのに欠かせない米が生まれる。井からは人が生きていくのに欠かせない水が湧き出る。六という数字で大切な米と水を守ったということになる。

 事のついでに岡崎の六並びを北東方向に延長してみる。六にまつわる地名をあれやこれやと調べたところ、『六供』という地名が東北地方にまで一直線に並んでいることが分かった。『六供』で住所検索をかけると、愛知県岡崎市、長野県小諸市、群馬県前橋市、そして山形県寒河江市がヒットする。そして、他にはない。




 厳密な地図も測量機器もなかった時代に、古代人がこれだけの広大なエリアに六という数字を配置することができたのか、否か。長い年月の間に紛れ込んだ偶然もあるだろうが、もし自分たちの国土を守ろうとした先人たちの知恵の遺産が垣間見えているのであれば、有り難いことである。