2017年3月26日日曜日

明大寺とは何か

 愛知県岡崎市には、今はもう残っていない二つの大寺院の名跡があります。

 ひとつは東岡崎駅あたりに残る、明大寺(妙大寺)という地名。明大寺は町の名前として残っています。明大寺の町域の広さから考えると相当重要な寺であったと考えられますが、今はその伽藍の痕跡もありません。つまり、名前だけがあって肝心の寺自体の痕跡が全くわからない状態です。でも、明大「寺」って言うくらいだから、そういう名前の寺院がこの辺にあったのは間違いなさそうです。

 もうひとつは、以前記事にした北野廃寺。北野廃寺は明大寺と異なり、寺の基礎が現存していることから、創建年代や規模などを今でも伺い知ることができます。北野廃寺の創建はとても古く、飛鳥時代にまで遡る上、その規模は大阪の四天王寺級の巨大な寺であったこと、そして創建には聖徳太子が関わっていたようであることなどが分かっているのですが、こちらは肝心の寺の名前が不明な状態です。北野という地名に残る寺院跡、だから北野廃寺。北野廃寺という寺名ではないわけです。

考えてみたらとても不思議じゃないですか。
片や名前だけが残り痕跡のない「明大寺」。
片や痕跡はあるけど名前のない「北野廃寺」。
この二つの寺跡、実は不思議な糸で繋がっているかもしれません。

  明大寺の由来は下記のリンク先にとても詳しくまとめられています。
http://www.okazaki-renaissance.org/discover/show/3

 このHPによると、明大寺はかつては「妙大寺」として存在したそうです。そしてこの妙大寺建立の歴史は全て源義経(牛若丸)と浄瑠璃姫の物語が軸となっています。

以下引用。

“承安4(1174)年、浄瑠璃姫が16歳の春のこと、牛若丸は身分を隠して、京都の鞍馬から奥州の藤原秀衡の元へと向う旅に出ました。その道中に、矢作の宿を訪れたのです。都を懐かしむ牛若丸の耳に、浄瑠璃姫の奏でる琴の調べが聞こえ、牛若丸は琴の音にあわせて手持ちの笛「薄墨(うすずみ)」を吹いたのでした。それがきっかけとなり、姫は牛若丸を屋敷に招き寄せ、二人は出合い、惹かれ合う仲となりました。その後、牛若丸は再び姫の屋敷を忍び訪れ、拒む姫を口説き落として一夜を共にし、その翌朝、奥州へと旅立っていったのでした。
 ところが、牛若丸が静岡の吹上の浜(静岡市清水区蒲原)まで行ったところで、瀕死の大病を患い、浜に棄てられてしまいました。それを牛若丸の守り神のお告げを聞いた浄瑠璃姫が助けに行きました。二人は再会を果たし、浄瑠璃姫はそこで牛若丸から彼の素性を明かされます。別れ際に、互いに形見を交換し、牛若丸は再び東方を目指し、浄瑠璃姫は矢作へと帰っていったのでした。

中略

 吹上の浜から矢作に帰った浄瑠璃姫は、母から家を追い出され庵に幽閉されてしまいます。義経との再会を心の支えにしてすごしましたが、ついに悲嘆にくれて乙川に身を投じてしまいました。その後、義経は軍勢を率いて上京の途中、姫を訪ねますが、姫は既にこの世にはいないことがわかり、姫の供養のために墓所を訪れます。すると供養塔の五輪が割け、そこから姫の魂が飛び出し天に昇って行ったとのことでした。”

 つまり、義経への思いを募らせている上親から関係を咎められ、屋敷へ幽閉された浄瑠璃姫は矢作川の浄瑠璃が淵で入水自殺。そして後に浄瑠璃姫が亡くなったことを知った義経が建てた寺こそ妙大寺だとのこと。ちなみに近隣の地名となっている千本とは、義経が彼女のために千本の卒塔婆を建てたから付いた名であるとしています。この妙大寺は多数の伽藍からなる大きな寺であったと言われており、その規模の大きさは、寺の痕跡が残っていないとしても地名として現存する明大寺地区の広さからみても、そして千本もの卒塔婆を建てたという逸話からも、女性の悲恋物語には過度なレベルの弔い方だと言わざるを得ません。

 しかも、この浄瑠璃姫のご両親は彼女の弔いのために「十王堂」まで建てています。悲恋に散ったうら若いひとりの女性の弔いに「十王」とは、なかなか穏やかではありません。


「十王」とは、地獄の10名の裁判官的な神様を指します。中でも最も有名なのは閻魔様です。十王信仰は、全ての生けるもの(衆生)はみな、初七日 から四十九日、百か日、一周忌、三回忌には、順次十王の裁きを受けるという信仰で、生前にこの十王を祀ることで、死んだ後もこの裁判での罪を軽減してもらえるという考えが元になっています。十王は死者の罪によって地獄へ送ったり、六道への輪廻をめぐらせるなど、大変怖い存在として認知されていました。そしてこの十王のひとりである閻魔様の部屋に飾られている、人の善悪の全てを包み隠さず映してしまう、審判の一番キモになる鏡の名こそ他ならぬ「浄瑠璃鏡」と言うのは、果たして偶然の産物なのでしょうか。

 つまり、この浄瑠璃姫物語、よく考えるといくつか疑問が残るのです。

1. 妙大寺の場所はどこか。
明大寺として残る町名は広範囲に及ぶにも関わらず、その跡地は不明。

2. 不自然なくらいの巨大な寺がなぜ消失したのか。
うら若い女性の悲恋の物語に不釣り合いなほどの規模の寺院の可能性。

3. 娘の死に際し、十王を祀った親の真意は何か。
彼女の幽閉と十王の性質から考えて、浄瑠璃姫の両親は彼女の所業を「罪」と思っていた可能性が高い。源氏の大将の弟君である義経から見初められたというのは、一地方の姫にとっては名誉なことでありこそすれ、そこまでの罪とみなされる原因とは思い難い。

 4. 浄瑠璃姫の遺物や痕跡は岡崎中に点在している。各所から見えるものは何か。
まずは浄瑠璃姫の痕跡をざっとリストアップしてみましょう。

① 浄瑠璃姫の墓(康生町)
岡崎城は現在の岡崎城よりもはるかに広く、浄瑠璃姫が幽閉されていた草庵の跡地もその敷地内にあった。その場所には浄瑠璃姫を弔った寺があったとされ、浄瑠璃曲輪と呼ばれていた。浄瑠璃姫の墓はいまは国道1号線沿いに岡崎城の外に移されている。浄瑠璃姫の侍女の墓という説もあり。

② 成就院(吹矢町)
浄瑠璃姫が入水自殺をした場所は浄瑠璃が淵と呼ばれている。入水前に着替えをした祠には観音像があったとされる。浄瑠璃が淵が堤防整備とともに取り壊されたとき、穴観音にあった観音像はすぐ近くの成就院に移された。

③ 誓願寺(矢作町)
浄瑠璃姫の父である兼高長者の家があった場所、すなわち浄瑠璃姫の生地。義経が浄瑠璃姫との宴会にて吹いたとされる薄墨の笛が安置されている。

④ 浄瑠璃寺(康生通西)
元々岡崎城内で姫の幽閉されていた草庵跡である。浄瑠璃姫の墓とよく似た痕跡であるが、浄瑠璃という名のつく寺はここだけである。

⑤ 六所神社(明大寺町)
現在の六所神社の参道にその名のみ残されている神社が高宮神社。大正時代、六所神社の替わりに短期間使用された名前。三河へ戻った義経が姫の愛した麝香(じゃこう)を祀ったとされる麝香塚を形作っていた石は、高宮神社の名を示す石塔の礎石として使用されている。これが大正時代のことだから、明治には麝香塚はまだ存在していたと考えられる。

⑥ 三河別院(十王町)
浄瑠璃姫が義経のために観月の宴を行ったところとされる。

⑦ 三河善光寺/無量寺(久後崎町)
妙大寺のご本尊であったとされる馬頭観音像を安置している。この寺は元々殿橋の南側にあったが、川の氾濫がよく起きていたため現在の位置へ移築されたとのこと。明大寺及び明大寺城の廃止の一因も風水害だったかもしれない。善光寺の名が示すように、本多氏が建立した寺である。

⑧ 麝香塚(明大寺町)
浄瑠璃姫の遺物である麝香を安置していた場所。大正時代の宅地開発によって消失。現在は明大寺町字麝香塚という名称のみ残っている。

⑨ 硯田(明大寺町)
 浄瑠璃姫のための千本卒塔婆の文字を書くために使われた硯を埋めた場所とされる。恐らくはこれも大正時代の宅地開発によって取り壊されたと思われる。旧愛知教育大のグラウンドとして使用された場所で、現在は自然科学研究機構のキャンパスになっている。

⑩ 麝香池(明大寺町)
浄瑠璃姫の遺物である麝香を安置していた場所。三島小学校の裏池となっている。
☆ その他の手がかり
・吉祥院(明大寺町):万燈山と呼ばれる高台にある寺。妙大寺の伽藍の一部とされる。
・千本(明大寺町):麝香池からみて北側の旧地名。千本卒塔婆の場所。
・安心院(明大寺町)
度重なる兵火のため明大寺は衰退。安心院の草庵だけが残ったと伝わっている。安心院に残る十一面観音は、牛若丸から浄瑠璃姫へのプレゼントという言い伝えがある。妙大寺跡地として最有力候補か。

 ひとつ重要なのは、当時の主要道路は東海道ではなく、旧鎌倉街道であった、ということです。現在は東海道こそが主要道路であることだけが見えていますが、東海道から見て川向うにあたる東岡崎駅側、つまり明大寺町の側にこそ、当時の主要道路である旧鎌倉街道は走っており、そこが岡崎のセンターだった時期がある、ということです。

 家康公の血筋である松平氏が台頭する以前、この地は西郷氏が支配しており、明大寺側に城があったことがわかっており、これは街道が明大寺側にあったこととも符合します。その城の名前こそ、現六所神社から川沿いまで広がっていたと思われる「明大寺城」です。西郷氏あるいはそれ以前の支配者は、この明大寺城あたりを根城にしていたと思われます。六所神社の裏から今でも見ることができる積み上げられた石垣は、もしかしたら明大寺城の遺構であるかもしれない。ちなみに六所神社の宮司さんのお話でも、六所神社が元々城内に建っていたと伝わっているそうです。
 
 では現在の岡崎城は一体何か。ここは、矢作川と菅生川(乙川)の合流地点であり、海運の要所と考えられます。つまりここもまた岡崎の要所と言えば要所です。しかしいわゆる関所に浄瑠璃姫は幽閉されたのです。男性からの申し入れを受け入れたとはいえ、最初は拒んだ気高い姫のたった一度の恋の代償としては、川向こうの関所への幽閉という措置はいくら何でもあまりにも酷な仕打ちではないか、と私は思います。

 さて、旧鎌倉街道の関門的存在になっていた明大寺城は、軍事的にも経済的にも拠点中の拠点であり、長者として名高い浄瑠璃姫の一族の邸宅もこの近辺、もしくはこの城そのものが邸宅だったのではないかと考えられます。ですから、浄瑠璃姫を弔うための寺「妙大寺」が、ここ(安心院あたり)に作られたのは、ごく自然なことと思われます。明大寺の伽藍の数が複数だったことから考えても、その規模は相当なものであるのは自明であり、もしかしたら明大寺城の一部が寺であった可能性もあります。なぜこれだけの規模、そして重い由来をもっている寺が消失したのでしょうか。

 この妙大寺が打ち捨てられてしまった最大の理由。それは、この地が長年、言わば「修羅の国」状態であったせいではないかと考えられます。岡崎は東海道のできる以前から交通の要所ということもあり、東から西から北から南からの攻撃にさらせされてきた。つまりこの地は戦争が絶えなかった地であったようです。戦争のたび、大規模な目立つ寺院であった妙大寺は狙い撃ちに会い、伽藍は幾度も戦火にさらされたとしても不思議ではありません。つまり、何度も消失を繰り返すこの寺院の再建は、岡崎の財政を逼迫するほどのものだったのではないでしょうか。現代にも言えることですが、豪奢で華美な文化遺産ほど再建にはお金がかかる、というのは世の常です。

 最終的にはこの後に全国制覇を果たすことになる松平氏の台頭が、妙大寺没落の決定打になったと思われます。現在の豊田方面、つまり北の地区から岡崎へ攻め降りてきた松平氏は、まず現在の岡崎城の地にあった北の砦を攻略し、ここを足がかりにして明大寺城を攻め落としたと考えられます。その後松平氏は明大寺城を解体し、本拠地を岡崎城に移しました。前の支配者の匂いを一掃することこそ、新支配体制づくりのはじめの一歩です。

 明大寺城の跡地には、六所神社や浄瑠璃姫関係の寺院・遺構が遺されました。そして何故か、浄瑠璃姫にまつわる遺構の多くは岡崎城に移されます。現在の岡崎城近辺に残る浄瑠璃寺や浄瑠璃姫の墓などは、元々現在の岡崎城内にあったとされています。そして主要道路が新たに東海道として現岡崎城側へ整備されたことを受け、東岡崎駅側の旧市街地はなりを潜め、それと同時に栄華を極めた妙大寺は、明大寺城の解体とともに消え去ったのかもしれません。さらに岡崎の近代化が進み、宅地開発、堤防の整備などによって、元々風化していた浄瑠璃姫の痕跡は次々と移動を余儀なくされたのだと思われます。

 なんだかとても悲しい気持ちになりますが、史跡としての妙大寺(明大寺)の歴史はこのようなところかと思います。しかし、浄瑠璃姫にはまだまだ謎がいくつかあります。私は、この女性の逸話に日本尊と宮簀媛の伝説の類似性を感じずにいられません。どちらも時代は全く違いますが、非常によく似た状況が描かれています。愛知に名高い気高い女性達の不思議な悲恋の物語、今後も探っていきたいと思います。

(文責S)

2 件のコメント:

  1. とても興味深い内容を寄稿下さりありがとう御座います。

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  2. 非常に興味深い話でした。私も似た話を知っています。名古屋市瑞穂区苗代町は昔は妙音通りと呼ばれていました。その地名も藤原師長と気高き娘の悲恋の物語に由来しています。昔の恋は文字通り命がけの情熱だったのですね。

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