2016年12月22日木曜日

冬至

 とうとう今年も終わりが近づいて来ました。この原稿を書いている22日は、一年を24に分割した二十四節気のサークルの、ちょうど270°にあたる場所にくる「冬至」にあたります。冬至は二十四節気の第22番にあたり、一年のうちで陽の出ている時間が一番短い日として皆様もよくご存知かと思います。しかし冬至というのは、それだけではない実は重要なランドマークなのです。
 現在の節気を決めている「定気法」は、太陽の天球上の通り道である黄道と赤道の交点である春分点を基点として24等分し、導き出された15°ごとの黄経上の特定の角度を太陽が通過する日に節気と、一年のキーとなる節気をあつめた中気を交互に配置しています。この性質から、定気法は「空間分割法」と呼ばれています。


 さらに、二十四節気を配置する方法にはもう一つ「平気法」があります。こちらはまさに冬至を基準点とし、今年の冬至から来年の冬至までの時間を24分割して導き出します。導き出された約15日ごとの分点に節気と中気を交互に配置するため、「時間分割法」とも呼ばれています。つまり、この「空間(定気法)」と「時間(平気法)」が一致するのが、一年で唯一この「冬至」というわけです。
 ちなみにインドを含む西洋では獣系の星座のラインを黄道で12分割する黄道十二宮が採用されており、冬至から大寒までのこの時期太陽はこの磨羯宮(まかつきゅう)すなわち山羊座に留まるため、この時期生まれは山羊座になりますね。山羊座のシンボルは上半身が山羊で下半身が魚なのですが、実はこの磨羯とは山羊を指すものではなく、インド神話の中の「マカラ」という魚の化け物がなまった名であることをご存知でしょうか。ギリシャから西洋占星術がインドへもたらされた時、山羊座のシンボルにインドの化け物があてがわれたのでしょうね。日本では既に平安時代には暦を司る宿曜道の中に磨羯宮の名が入ってきており、さらにその後は密教へも思想が取り込まれていきます。日本古来からの伝統に、ギリシャからインドを経由したオリエンタルな思想が基盤となっているなんてなんて素敵な世界なんでしょう。

(文責S)

2016年11月17日木曜日

真福寺

 前回は北野廃寺跡を取り上げ、この場所が推古天皇期と非常に古いものであること、建立に聖徳太子が関わっていること、聖徳太子が建立した最大・最古の寺院である四天王寺と同規模・同時期の寺院であったこと、そして太子の仏教普及活動の障害として立ちはだかり、最期は太子と蘇我氏に討たれた物部守屋が祀られた寺院であったことを書きました。今回はそんな曰く付きである北野廃寺跡と同様、物部氏と非常に縁深い史跡である真福寺にスポットを当てたいと思います。

 真福寺は、岡崎市真福寺町にある天台宗の寺院で、正しくは「靈鷲山降劔院真福寺」と書きます。聖徳太子が開基したとされる46箇所の寺院のうちのひとつで、物部守屋の息子である物部真福(まさち)の願いから推古天皇2年(594年)に造られたと伝わっています。本寺院の御本尊は通称水体薬師という名のついた薬師如来と言われていますが、御本尊の本来の姿が井戸であることは、あまり知られていません。太子と蘇我氏に討たれて敗走中の物部真福が、山中でここにこんこんと湧く泉を見つけ、これを御神体として祀ったことが最初のようで、今でも真福寺のお堂の真ん中に祀られているものはこの井戸そのものです。つまり寺と銘を打っていますが、その真の姿は正に自然神を祀る古神道そのものであり、さすが神祇を司る物部氏と言わざるを得ません。



 また祀られているのは水だけでなく、真福寺では「八所神社」という名の神社も併設されています。この八所神社には奥の院があり、拝殿からさらに山を登った先に社があるのですが、本来はここに祠があったそうです。その祠がいつからあったのかは全くわからず、少なくとも寺が建立される以前には祠があったことがわかっています。面白いことに主祭神は迦具土神(カグツチ)、つまり火の神であり、寺の御本尊である井戸(水)とは対を成しています。このように火と水を合わせて祀る姿は、伊勢神宮の皇大神宮(内宮)と外宮の対の姿に代表される、太陽と水を神と仰ぎ豊穣と安寧を祈る原始宗教の姿そのものです。そしてこの姿は何も日本に限ったことではなく、拝火教であるゾロアスター教の原型ミトラ教や北欧神話など、いわゆるキリスト教の普及以前のアミニズム信仰の形にもみることができます。

 さらに加えて、他祭神としていわゆる天孫系ではない出雲系の素戔嗚と大国主が合祀されていること、カグツチの表記が海外向け歴史書である日本書紀の表記「軻遇突智」ではなく国内向け歴史書である古事記の表記「迦具土」であること、境内に磐座として用いられたと推測できる巨石群が散在していること、などを総じて考えると、この岡崎という土地の神とは、天照大神に代表される天孫族の系譜の神々ではなく、古来より日本に定住していた、いわゆる日本土着の出雲系の神々が支配していた土地であると推察されます。これは、尾張氏の総社である尾張一宮「真清田神社」が祀る主祭神が、天孫族の祖であり日本へ最初に降り立ったとされる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)ではなく、彼より前に日本へ降り立った瓊瓊杵尊の兄、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)であることからも、容易に想像ができます。

 物部氏の氏神はまさに饒速日命であり、饒速日命の子で物部氏の祖とされる宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)が物部の長の証として佩刀していた剣が、霊剣布都御魂劔(ふつのみたまのつるぎ)です。劔を振ると「フッ」と風を切る音がするくらい鋭かったためこの銘がつけられたといわれるこの劔は、現在奈良県天理市の石上神宮の御神体として祀られています。この石上神宮は劔の神社と言われ、草薙剣を含めた日本の霊剣・神剣の魂が一斉に祀られている神社であり、かつて物部氏の武器庫であったと考えられています。
 ここで最初に述べた、真福寺の真の名「靈鷲山“降劔院”真福寺」を思い出してください。なぜ“降劔院”なのか寺の住職さんに訪ねたところ、昔本当に劔が奥の院に収蔵されていたことがわかりました。そしてその後、劔は三河富士として知られる村積山の山頂にある村積神社へ遷されたそうです。現在劔は岡崎市の所蔵となり、どこかで保管をされているそうですが、その行方は知る術がありません。

 ここから先はあくまで私見ですが、私はどうしても想像せずにはいられないのです。物部守屋は物部氏の総大将でした。太子と蘇我に討たれた総大将亡き後、物部の総大将は息子である真福が継ぎ、総大将の証である劔は真福の手に渡ったのではないか。そして敗走する真福が終の地として天神山へたどり着き泉に救われ、長の証の劔そのものを祀った(隠した)のではないか。すると、もしかしたらこの地に祀られた劔こそ、伝説の霊剣布都御魂劔だったのではないか。

 この劔が本当に現存するのか、それすら確認する術が無い以上、全ては憶測でしかありませんが、そんな想像を膨らませずにはいられない、とても不思議で面白い経緯を持つ史跡がこの岡崎にはあることを、私は皆さんに少しでも知ってもらいたいと思います。

(文責S)

2016年11月16日水曜日

北野廃寺跡

 岡崎に来てからもうだいぶ経つのですが、歴史的に古いと言いつつも、この土地の歴史は殆ど徳川家康以降のものしかきちんと伝わっていないように思います。つまり、徳川家康の誕生の前にも連綿と歴史は続いていた訳で、では徳川以前の動向は果たしてどうなっていたかというと、実はわかっていないことの方が多いことを皆さんはご存知でしょうか。

 一つ例を挙げると、私たちが日々暮らしている「明大寺」と呼ばれる場所は、かつては「妙大寺」という名だったそうです。いつ、どういったタイミングで名が付け替えられたのかは、実はよくわかっていません。しかし重要なのは名前がどうして変わったか、ということだけではありません。「寺」と付くからにはどこかにお寺があったはずなのに、この明大寺近辺にはその名を冠する寺は一向に見当たりません。どこへ行ったのか、図書館へ行って岡崎の歴史を調べても、その記述は見当たらないのです。これはとても不思議なことです。

 この明大寺の不思議のように、岡崎には実は「よくわからない」寺社仏閣、史跡が数多くあります。今回はその中でも最大級、私の中では最も謎な場所である「北野廃寺跡」について書きたいと思います。

 北野廃寺跡は、東岡崎の北にある大門から矢作川を挟んで西側にある、北野に位置する古代寺院跡です。この史跡は既に何度も発掘調査が入り、出土物から飛鳥時代(7世紀)の創建から平安中期の廃絶(10世紀)にかけて、約3世紀にわたり岡崎の地にあったものと考えられています。しかもこの寺、聖徳太子が建立した日本最古の仏教寺院のひとつである四天王寺と同様の伽藍配置(南北に南大門、中門、塔、講堂が一直線に並ぶ様式)を取る上、法隆寺の五重塔よりも規模が大きい五重塔が建っていた痕跡が残っています。つまりこの寺は、建立が日本最古のレベルで古く、規模は当時でも最大のものであった可能性があります。しかしとても不思議なのは、この寺がなんという名の寺だったのか、その名が記録に残っていないのです。

 この廃寺跡はもともと物部氏の氏寺であると言われており、それを裏付けるように岡崎には他にも岩津の真福寺など、物部ゆかりの寺があります。しかしここで疑問なのは、そもそも物部氏というのは神道にゆかりのある氏族です。物部守屋は、国家的な仏教の普及を推進する蘇我氏に対抗して殺されました。つまり、根っからの神道一家だった物部が、どうして氏寺を持っていたのでしょうか。さらに言うなら、どうして大和朝廷のある近畿から離れたこの岡崎に物部の氏寺が建立されたのでしょうか。残念ながらこの謎に答えてくれる文献は残存していません。


 私は最近、とある縁によって岡崎の歴史を調べていくことに深く関わるようになりました。この北野廃寺跡だけでも少ない紙面では到底伝えきれない、まだまだたくさんの不思議があります。そして、この岡崎自体には、実は歴史の波に埋もれた、非常に興味深い歴史を持った多くの場所があります。私もまだまだ手探りの状況ですが、もしどなたか足を運ばれた方、もしくは先祖代々こちらにお住いの方で、何か気づいたこと、知っていることなどありましたら、ぜひ坂本にご教授を頂けましたら幸いです。

(文責S)

2016年11月14日月曜日

神明宮

伊勢神宮と岡崎との繋がりはとても強い。

 下図はGoogleMapで「神明宮」を検索したものである。神明宮が岡崎とその周辺に集中しているのが見てとれる。

 神明宮あるいは神明社は伊勢神宮内宮を本社にする神社だ。全国各地に拡がっているが、ここまで集中しているのは、この地域特有の現象のようである(神明神社)。

 ちょうど岡崎の六並びの海への入り口にあたる知多半島先端の神明宮が印象的である。知多の神明宮では伊勢神宮御遷宮の際、御古材が下賜され20年ごとに遷宮が行われている。

 能見の神明宮は、元稲前神社とされており、祇園祭風のお祭りが盛大に開催される(能見神明宮大祭)。

Google Map から引用

2016年11月13日日曜日

岡崎の六並び(転載)

以下「岡崎の六並び」からの転載。
これがすべての出発点です


 最近気がついた。僕たちが居住する愛知県岡崎市に『数字の六』に因んだ地名が並んでいる。意味のあるなしは別として、とても面白いのでご紹介する。

 六に因む地名は、岡崎市の南西から北東に向かって一直線に並ぶ。

 南西端は、『六ツ美』。六ツ美は岡崎市の穀倉地帯で、田園風景が美しい。六ツ美という町名はないが、地区の小学校や中学校の名称から、その一帯が古くから六ツ美と呼ばれているのが確認できる。小学校だけでも西部小、北部小、南部小と広大な町域をもつ。

 六ツ美地区から北東へ進むと、『六名』。『むつな』と読む。六名が入った町名が名鉄東岡崎駅とJR岡崎駅の間に五つもある。六名本町、六名新町、六名東町、六名南、そして六名町。これまた六名地区と呼ぶべき広大なエリアだ。

 さらに北東に進むと、徳川家康の産土神として江戸幕府の手厚い保護を受けた『六所神社』。六所神社から乙川(おとがわ)の川向こうには『六地蔵』という小さな町がある。

 その次は『六供』。岡崎のほぼ中央部、名鉄東岡崎駅からちょうど真北に位置する古い市街地である。六供と書いて『ろっく』と読む。六供も広い町域を持つエリアである。

 六供からさらに北東方向に直線を延長させる。東名高速を越えた辺りに『抱六岩』という珍しい町名。『ほうろくがん』と読む。そして、岡崎を抜けて豊田市に入ったところで、『六所山』の文字。徳川家の始祖、松平家発祥の地である。

 つまり、六所山を北東端として、抱六岩~六供~六地蔵~六所神社~六名~六ツ美と、一直線に『六』が並んでいる。これが、岡崎の六並び。






 なぜ、岡崎に六の数字が並んでいるのか。単なる偶然の産物かもしれない。が、簡単に偶然の産物と片付けてしまっては面白くない。ここからは僕たちなりの想像力を膨らませての謎解きだ。

 ヒントは稲前(いなくま、いなさき)神社。抱六岩と六供地区の中間地点に位置する神社である。古くはその年一番の稲を刈り取って、まずは稲前神社の神倉に運び置き、のちに伊勢神宮に送ったという伝承がある。古来伊勢神宮は日本全体の鎮守として全国から崇敬され、神道の最高神であった。特に絶大な権力が朝廷にあった頃は、伊勢神宮が自ら直轄領を取り仕切っていた。岡崎の地も天神山と称えられており、伊勢神領に属していたらしい。つまり、僕たちのアイデアは『伊勢神宮』説だ。岡崎の六並びを南西に延長して海を越えたところに、ちょうど伊勢神宮が鎮座している。




 では、なぜ伊勢神宮の北東方向に六の数字か。想像力をさらに膨らませよう。六は古くから魔除けに用いられてきた数字とされる。六角形を基調とした籠目という文様がある。竹編みの籠の編み目を図案化したもので、魔除けとしてこの図形を用いる。六角形の亀甲模様も同じ意味で古くから使用する。六角形という形状はハニカム構造とも呼ばれる物理的に非常に強い特質を持つことから、敵から防御するという意味合いを自然と含んだのだろう。現在に残る痕跡としては、伊勢神宮周辺にある石灯籠に籠目印が刻まれているのが有名である。また伊勢神宮のお守りには、珍しい六角形の形状のものがある。北東の方角とは、悪しき者がやってくるという『鬼門』にあたる。岡崎は伊勢神宮からちょうど鬼門の方位だ。古代人が、伊勢神宮が岡崎を神聖な場所として直轄領とし、六という数字を配して鬼門を守ったのではないだろうか。

 ここまで辿り着いたら、想像ついでにあと一押し。岡崎市籠田町の籠田公園。六供のすぐ南西に位置するこの公園は岡崎のあらゆる祭り事が集中する都市公園。岡崎にとっては、「へそ」と言っても過言ではない重要なポイントだ。もし籠田の籠が、籠目の六を意味しているのなら、六の田んぼだ。さらにだめ押しするなら籠田公園のすぐ北東には亀井町がある。六角形が基調の亀甲模様。もし亀井の亀が六を意味しているのなら、六の井だ。田からは人が生きていくのに欠かせない米が生まれる。井からは人が生きていくのに欠かせない水が湧き出る。六という数字で大切な米と水を守ったということになる。

 事のついでに岡崎の六並びを北東方向に延長してみる。六にまつわる地名をあれやこれやと調べたところ、『六供』という地名が東北地方にまで一直線に並んでいることが分かった。『六供』で住所検索をかけると、愛知県岡崎市、長野県小諸市、群馬県前橋市、そして山形県寒河江市がヒットする。そして、他にはない。




 厳密な地図も測量機器もなかった時代に、古代人がこれだけの広大なエリアに六という数字を配置することができたのか、否か。長い年月の間に紛れ込んだ偶然もあるだろうが、もし自分たちの国土を守ろうとした先人たちの知恵の遺産が垣間見えているのであれば、有り難いことである。