2016年11月16日水曜日

北野廃寺跡

 岡崎に来てからもうだいぶ経つのですが、歴史的に古いと言いつつも、この土地の歴史は殆ど徳川家康以降のものしかきちんと伝わっていないように思います。つまり、徳川家康の誕生の前にも連綿と歴史は続いていた訳で、では徳川以前の動向は果たしてどうなっていたかというと、実はわかっていないことの方が多いことを皆さんはご存知でしょうか。

 一つ例を挙げると、私たちが日々暮らしている「明大寺」と呼ばれる場所は、かつては「妙大寺」という名だったそうです。いつ、どういったタイミングで名が付け替えられたのかは、実はよくわかっていません。しかし重要なのは名前がどうして変わったか、ということだけではありません。「寺」と付くからにはどこかにお寺があったはずなのに、この明大寺近辺にはその名を冠する寺は一向に見当たりません。どこへ行ったのか、図書館へ行って岡崎の歴史を調べても、その記述は見当たらないのです。これはとても不思議なことです。

 この明大寺の不思議のように、岡崎には実は「よくわからない」寺社仏閣、史跡が数多くあります。今回はその中でも最大級、私の中では最も謎な場所である「北野廃寺跡」について書きたいと思います。

 北野廃寺跡は、東岡崎の北にある大門から矢作川を挟んで西側にある、北野に位置する古代寺院跡です。この史跡は既に何度も発掘調査が入り、出土物から飛鳥時代(7世紀)の創建から平安中期の廃絶(10世紀)にかけて、約3世紀にわたり岡崎の地にあったものと考えられています。しかもこの寺、聖徳太子が建立した日本最古の仏教寺院のひとつである四天王寺と同様の伽藍配置(南北に南大門、中門、塔、講堂が一直線に並ぶ様式)を取る上、法隆寺の五重塔よりも規模が大きい五重塔が建っていた痕跡が残っています。つまりこの寺は、建立が日本最古のレベルで古く、規模は当時でも最大のものであった可能性があります。しかしとても不思議なのは、この寺がなんという名の寺だったのか、その名が記録に残っていないのです。

 この廃寺跡はもともと物部氏の氏寺であると言われており、それを裏付けるように岡崎には他にも岩津の真福寺など、物部ゆかりの寺があります。しかしここで疑問なのは、そもそも物部氏というのは神道にゆかりのある氏族です。物部守屋は、国家的な仏教の普及を推進する蘇我氏に対抗して殺されました。つまり、根っからの神道一家だった物部が、どうして氏寺を持っていたのでしょうか。さらに言うなら、どうして大和朝廷のある近畿から離れたこの岡崎に物部の氏寺が建立されたのでしょうか。残念ながらこの謎に答えてくれる文献は残存していません。


 私は最近、とある縁によって岡崎の歴史を調べていくことに深く関わるようになりました。この北野廃寺跡だけでも少ない紙面では到底伝えきれない、まだまだたくさんの不思議があります。そして、この岡崎自体には、実は歴史の波に埋もれた、非常に興味深い歴史を持った多くの場所があります。私もまだまだ手探りの状況ですが、もしどなたか足を運ばれた方、もしくは先祖代々こちらにお住いの方で、何か気づいたこと、知っていることなどありましたら、ぜひ坂本にご教授を頂けましたら幸いです。

(文責S)

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