2019年10月8日火曜日

善光寺には人々の心が詰まってるのですよ

 ここのところ善光寺を調べておりました。それには理由がひとつありました。私たちの前著「ロマンで古代史は読み解けない」で諏訪大社を考察した際、諏訪大社は伊勢神宮の鬼門にあたるとしました。鬼門とは、北東の方位のことです。陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角とされています。北東は十二支でいうところの丑と寅の間、すなわち艮=うしとらに当たります。伊勢神宮の鬼門を諏訪大社が、そして裏鬼門を熊野三山が押さえているのではないかという仮説です。

 諏訪大社の天下の奇祭である御柱の開催年は六年ごとです。通例で七年ごとと数え年で表記されることが多いのですが、実際は満六年ごとです。その開催年は十二支でいうところの寅年と申年になります。伊勢の鬼門の位置にある諏訪の大祭が、なんと方向的にはほぼ鬼門裏鬼門に匹敵する年に行われているのです。なんだか陰陽道の香りがするではありませんか。とても面白い偶然の一致です。

 しかし、真の鬼門とは丑と寅の間のことです。寅や申だと、すこしズレています。そのズレを埋めてくれそうなのが善光寺だったのです。

 地図上では善光寺は諏訪大社の若干北東によりの北側に位置しています。その善光寺の秘仏中の秘仏、一光三尊阿弥陀如来の御開帳がなんと満六年に一度に行われています。恐ろしいことに、丑年と未年の開催です。御柱祭のちょうど一年前に行われますから、善光寺と諏訪大社をひとつに合わせれば、丑寅と申未の鬼門裏鬼門の祭りごとが信州の地に完成します。これって怪しさ満載ではないですか。調べない手はありません。

 調べ始めてすぐに善光寺と諏訪大社の只ならぬ関係が明らかになりました。下の地図を見ていただくと一目瞭然です。お寺である善光寺の四方を諏訪大社の支社である四つの神社が守っています。湯福神社(左上) 、妻科神社 (左下)、武井神社(右下) 、健御名方富命彦神別神社(右上)です。


善光寺を守る四つの神社(Google Map)



 湯福神社、妻科神社、武井神社は善光寺三鎮守と呼ばれています。それに健御名方富命彦神別神社 を加えて、善光寺の四方をがっちりと固めています。これらの善光寺を守る四つの神社は諏訪大社の御柱大祭と同じ年に御柱大祭を行います。四つの神社は持ち回りなので、それそれ二十四年という極めて長い周期で御柱祭を催しています。御柱は善光寺の周囲を引き回されますが、善光寺の正門ではきっとりと停止して善光寺に祈りを捧げます。神社が寺に祈りを捧げるのです。各神社に二本の御柱。本家の諏訪大社の御柱は四本で一セットとなり各ご神殿を守ります。善光寺を守る神社は自身を守るのではなく、2本+2本+2本+2本という形で善光寺を守っているのです。善光寺と諏訪神社は切っても切れない関係がありそうです。

 そもそも善光寺の御開帳のときも回向柱という御柱に似た柱を善光寺の中心に置き、一光三尊阿弥陀如来の身代わりとなる仏像と糸で結びます。柱の祭りとしても大いなる共通点があります。非常に変わった形ですが、これは神仏習合の一種と言いのではないでしょうか。私たちは熊野大社の完全なる神仏習合を見て、その上で諏訪大社を見たときに、諏訪大社では神仏習合が比較的進まなかったのではないかと思ったりしていたのですが、どうやらそれは間違った認識のようです。

 ではなぜ、このような変わった形の神仏習合が信州の地にできあがったのでしょう。その答えのヒントは、長尾晃氏の書かれた「善光寺コード」にありました。本では善光寺の秘密を著者の本業である建築の知識を生かして、まるでダビンチコードのように推理して解いていきます。善光寺と諏訪大社の関係もその中のひとつの疑問として推察されており、善光寺の出生の秘密を諏訪大社に求めています。詳細は本を読んでいただくとして、もしそれが本当だとすると、私たちしても腑に落ちるところがあります。

 「ロマンで古代史は読み解けない」の考え方のひとつに心理学があります。人の心の動きで歴史の動きを読むのです。古き人の心の動きを考えてみましょう。

 飛鳥時代、日本に仏教が伝来し国教として普及し始めました。そのころ、各地にあった神社で栄えていた神道はすでに成熟しつつありました。それらの神社を仕切っていた神官たちの気持ちを考えてみますと、仏教の普及は「私っていうのがありながら何よ」ではないでしょうか。当然ながら仏教を取り入れようとする派と、仏教を排除しようとする派に分かれて争いが起こるわけです。が、徐々に排除派は追い詰められていきます。ここで本来の宗教間の争いであるなら相手が滅びるまで戦い続けるわけですが、古来からの日本の伝統でそういう絶滅的な争いにはなりません。

 むしろ、神道側が柔軟にそして積極的に仏教の要素を取り入れていきます。ライバルのスーパーマーケットが新しい商品を売り出せばすぐに同じ商品を売り出すスーパーマーケットのような感じです。日本の宗教の場合、あくまでもお客様が神様なのです。お客様本位で経営がなされます。その最たるものが本地仏です。天照大御神は大日如来、十一面観世音菩薩であり、八幡神・応神天皇は、阿弥陀如来であり、秋葉権現は観音菩薩であり云々です。熊野三山は最も徹底されました。そもそも神社なのに三山です。ふたつの宗教は完璧に融合を果たしました。一方、諏訪大社は、自身の神様に手を付けることはしなかったようです。そのかわりといっては何ですが、自らの手で善光寺という壮大な寺を作り上げ、経営まで行ったのではないでしょうか。善光寺を作ることによって、中央の仏教推進派の顔を立てることができます。これで諏訪大社の地位は安泰です。しかもご近所のお客様(一般の皆様)の需要を満たすこともできます。生を司る神社と、死を司る寺の陰陽システムが完璧な形で完成したのです。

 お近くの神社に行けば、たいていの神社は境内に各地の有名神社を祭った摂社があります。どのような神社であったとしても稲荷神社や八幡神社は必要なのです。カトリックの教会にプロテスタントの小さな教会があるような感じですが、まさにこれがお客様本位という経営です。善光寺は無宗派の寺です。しかし実際の境内には各地の有名な寺の支店が軒を連ねています。これが日本的な宗教の風景なんです。

 さて、最初に書いた鬼門裏鬼門はなんだったのでしょうね。

 スピリチャル好きの方は肩透かしをくらったかもしれません。歴史を辿ってみると、実は六年に一度の大祭が鬼門裏鬼門の方向に固まったのは、それほど古いことではなく、いろいろな変遷をへて現在の時間軸があるようです。どうやら偶然、鬼門裏鬼門の方向になったのです。そういう意味では、その設計が人の手ではなく、自然に成立したこと自体が、世にも不思議な物語といえるかもしれませんね。