2017年4月20日木曜日

龍の道とアラハバキ、塞の神 ー六所神社考ー

 名鉄東岡崎駅南口から徒歩5分の場所に、六所神社はあります。ここは徳川家康公の産土神とされ、数年前にはNHK朝の連続テレビドラマの撮影でも使われるなど、岡崎市では知らない人のいないくらい有名な神社です。しかしご祭神はあまり他で見ることのない、ちょっと変わった神様たちが祀られています。

六所神社 ご祭神
塩土老翁神,猿田彦神,衝立船戸神,興玉神,事勝国勝長狭命

 塩土老翁神は、武甕槌(タケミカヅチ)と経津主神(フツヌシノカミ)が諸国平定する際に道案内をした神。道しるべの神であり、製塩の神です。つまり海の神ですね。総本宮は宮城県の鹽竈神社であり、六所境内には鹽竈神社から頂いた桜が植樹されています。
 
 猿田彦神は天照大神に派遣された瓊瓊杵尊の道案内をした神。八咫鏡の元伊勢探しの旅では、猿田彦の子孫である大田命が一行を先導して案内し、五十鈴川の一帯を献上したことが「倭姫命世記」に記載されています。

 衝立船戸神は別名岐の神(クナトノカミ)と言い、外からの悪霊の侵入を防ぐ神。日本書紀や古語拾遺選では猿田彦と同神と言われています。いわゆる塞の神。日本書紀では黄泉比良坂で伊奘冉から逃げてきた伊奘諾が「来るな」と言って投げつけた杖が来名戸祖神(クナトノサエノカミ)となったと書かれているところ、古事記では「衝立船戸神」と書かれています。

 興玉神(オキタマノカミ)はあまり知られていませんが、とても由緒ある神です。伊勢神宮内宮正宮の守護神として正宮御垣内に鎮座されています。猿田彦の子孫で五十鈴川一帯を献上した大田命の別名とも言われます。ちなみに内宮正宮には他に宮比神(ミヤビノカミ:猿田彦の妻である天鈿女の別名という説もある)と屋乃波比伎神(ヤノハヒキノカミ、今回の主役なので後述)の合わせて3神が祀られています。

 事勝国勝長狭命は高千穂に天下った瓊瓊杵尊に笠狭崎で国を譲った神とされています。塩土老翁の別名という説もあります。

 つまり六所神社の本質とは、海運に関わる道を示す神、悪霊が入リ込まないようにする塞の神、いわゆる守護の神としての性質を帯びていることがわかります。海と海運、製塩の塩土老翁、杖から生まれた岐神、五十鈴川の大田命、国津神の事勝国勝長狭命。ご祭神の性質をあげていくと、そこにはある一つの姿が結びつきます。それは「蛇神」の姿です。

 風水や陰陽道に限らず、水と蛇、蛟、龍は非常に親和性が高いものとして古くから認知されてきました。それは荒々しく流れる急流の川や海の様々な生物の姿が龍の姿に比されたからでしょう。事実航海の無事や大漁を祈る神事の殆どは、全国レベルでどこを見ても龍神を祀ったものが多いですし、アニメ千と千尋でも川を神格化した姿が白龍として登場するなど、龍は水場に多く現れます。
 
 大和(奈良あたり)から三河までの行程に船が用いられて来たことは、続日本紀に書かれた持統天皇の死の直前(大宝2年つまり704年)に行われた伊勢、尾張、三河行幸の記述からも見てとることができます。 この際持統天皇は伊勢的潟(湾の地形が変わっているため場所には諸説あり)から船に乗り、三河に入ったとされていますが、その船が到着した場所、というのが、豊川という説もあれば、矢作川河口付近の西尾市あたりから、という説もあります(穂積裕昌著「伊勢神宮の考古学」)。このように、海のルートの玄関口であった矢作川の走る岡崎市にも蛇(龍)の逸話が数多くあります。例えば有名なところでは矢作川と枝流である乙川が合わさる岡崎城のある場所は龍頭と言われ、龍城神社が建てられていますね。 また前回ご紹介した浄瑠璃姫伝説の中にも、蛇の象徴である「笛」が重要なアイテムとして出てきますし、浄瑠璃姫は川に入水自殺を遂げます(笛と蛇の関連性については、民俗学者の谷川健一氏の著書「蛇ー節と再生の民族」の中で指摘されています)。
  矢作川、乙川は古くから水害がひどく、荒ぶる龍の姿が投影されていたとしても不思議ではありません。事実岡崎には籠田、龍城神社、龍海院、竜海、竜美、竜泉、竜谷など、「龍」と名のつく地名が非常に多く、岡崎城から北西に線を伸ばした先には竜神町、南東へ線を伸ばせば行き着く先は竹島の八大龍神社にあたります(日置様、情報心より御礼申し上げます!これが大きなヒントになりました)。ちなみに竜美(たつみ)とは恐らく辰巳の方位とイコールであると考えられます。つまり竜美とは辰巳であり、八大龍のいる南東方向を指すとともに辰(龍)と巳(蛇)そのままの意と考えられます。

つまりまとめると
1. 六所神社には龍にまつわる神、龍を連想させる神が多く祀られている。
2. 岡崎市には龍(竜)、蛇に関わる地名が多い。
3. 岡崎城から龍の地名をつなぐと竹島八大龍神社を先頭にした南東方向のラインとなる。

 さて、この話を一つにまとめるにあたり、無視できない神がいます。それこそが満を持して登場する古代神、アラハバキ(荒脛巾神)です。ここに至るまで長かった。。



 アラハバキは謎の神です。まず祀られている神社が少ないので、色んな人が好きな解釈をしています。しかしどうやらアラハバキは塩土老翁神と関連がある神であることは間違いないようです。鹽竈神社には摂社「阿良波々岐明神社」があります。ここでアラハバキは客人神と呼ばれ、旅人の足を守る「足の神」として尊崇を集めてきたと伝えられています。つまりアラハバキ=荒脛巾と当て字されたのはここらあたりが理由のようですね。

 しかし、陰陽五行の専門家として名高い吉野裕子氏は別の解釈をしています。それはアラハバキという名は「蛇神」を示す、というものです。蛇の古語が「ハハ」と言うことから、ハハキとは「蛇木」であり、古くは直立する樹木を蛇に見立てて祭事を行ったことからこれをアラハバキという、としています。この直立する樹木を神ないし神の依代とみる姿はまさに古神道の神籬(ひもろぎ)の姿であり、私もこの説には賛成です。そしてこの姿はもうひとつ、衝立船戸神の杖ともよく似ています。杖に蛇とくればモーゼが持っていたアロンの杖、その姿も杖と蛇、ですね。モーゼが持つ杖とは生命の木の枝から作られた羊飼いの杖です。日本では羊飼いの杖?ビシッと叩くやつ?となるかもしれませんが、西洋では羊飼いの杖とは権力の象徴です。そして行先を示す神の御使、道しるべなのです。この杖の中の杖、杖オブ杖であるモーゼのアロンの杖には蛇が巻き付いています。これはモーゼが出エジプトの際、エジプトのファラオの前で自分の杖を蛇に変えたことから結びついたものと考えられます。ちなみにこの蛇は毒蛇であり、毒蛇の毒は薬にもなることから、医療のシンボルは杖の周りに2匹の毒蛇が巻き付いた姿で描かれます。要は杖と蛇、という図式は何も日本に限った話ではなく、世界的にあるものですよ、ということです。

 もう一つ、民俗学者の谷川氏はアラハバキの塞の神、エミシの神としての性質を説いています。前述の 阿良波々岐明神社がエミシ制圧の拠点である多賀城のすぐ脇に祀られていることから、エミシの神であるアラハバキをエミシからの威力を避ける政策として祀ったのではないか、としています。事実、玉造柵にも荒脛神社が祀られており、これが防御の役割を示しているとしています。ここからいわゆる現代の塞の神である道祖神へと普及した、というのが彼の説であり、これは衝立船戸神や興玉神の持つ守護の性質と非常によく似ています。

  加えて面白いことに、このアラハバキを祀る神社というのは、多くが近代に名を変えられてしまっているものが多く、アラハバキを祀っている、祀っていた記録の残る神社は、東北、関東、甲信越、三河の順に濃い分布をみせています。そしてかの「伊勢神宮」にもアラハバキにゆかりのある社があります。

 それこそが、興玉神とともに伊勢神宮内宮正宮を守護する
 「屋乃波比伎神(矢乃波波木神)」です。

 内宮で祀られているこの神は、波波木神(ハハキノカミ)、波比岐神(ハヒキノカミ)とも言われ、内宮の南東、つまり「辰巳」の方角に祀られています。吉野裕子氏は、このことからこの波波木神が顕れることを顕波波木神(アラハバキ)としてその姿を蛇神と読んだのですが、これこそが正解なのではないでしょうか。

 そして白川静は、「祀」という字自体を蛇神信仰となぞらえています。「巳(蛇)」を神として祀る姿、それこそが古代祭祀のルーツである、というわけです。

 六所神社で祀られる多くの神。塩土老翁神、猿田彦、衝立船戸神、興玉神、 それら全てがアラハバキの姿と重なる。つまり、六所の本性はアラハバキであり、このアラハバキの本性は龍神なのではないか、というのが私の説です。

  岡崎城のあるあたりが龍頭であり、アラハバキの頭であるならば、竹島の八大龍神社は龍の尾になります。尾が八つの龍、それは八岐大蛇の姿には比せられませんでしょうか。

 スサノオが八岐大蛇を倒した時、尾から出たのが天叢雲剣、つまり熱田の御神体「草薙剣」です。そしてスサノオが大蛇を倒した十握剣、別名天羽々斬剣は、八岐大蛇の尾を咲いた際に尾の中にあった天叢雲剣に当たり欠けてしまいました。なぜ欠けたか。そしてなぜ龍を倒した勝者の剣である天羽々斬が神器となるのではなく、天叢雲剣が玉体の象徴である神器となったのか、それは八岐大蛇の剣が天孫族の持ち得ない技術であった製鉄技術の粋を極めた「鉄剣」だったからではないでしょうか。

 事実、アラハバキは製鉄に関わる神、鍛治神、製鉄神としても崇められています。アラハバキとは荒吐(アラ)吹き(ブキ)に通じ、アラハバキの名のつく神社の側は砂鉄がでるところも少なくありません。伝統的な銅鉱精錬法の最初の段階で鉱石を吹き溶かすことを「アラブキ」といいます。古くは製鉄技術を異人の呪術とみなしていた時期がありました。これの証左となるか、鹽竈神社摂社の阿良波々岐明神社には鋏や鉄製品を奉納する習慣があります。

  尾張物部をはじめとした饒速日一族が本来祀っていた神、それこそがアラハバキという龍神、蛇神だったのか、龍神信仰を持つこの一族自体をアラハバキと呼んでいたのか、それはわかりません。ただ、この岡崎に残る数々の国津神の息吹には龍の痕跡が明らかに残り、その本性はこの謎の神アラハバキとよく似ているのは事実であると思います。

 矢作川から枝流の乙川沿いにかけて、素盞嗚尊(スサノオノミコト)の名を冠した神社が大小合わせて5社、そして素盞嗚尊が祀られた神社が多く存在しています。素盞嗚尊はもともとは父である伊奘諾から海を統治するように仰せつかった神です。矢作川は古くは一色町を流れる矢作古川を整備して今の形となったもので、江戸時代までは非常に水位が高くて深い、船での往来ができるくらいの大河でした。そしてよく氾濫を起こしていました。氾濫を鎮めるため、川沿いに素戔嗚尊が祀られたのか、そもそもこの辺りの一族が国津神の一派であったため、その祖である素戔嗚尊が川の道の拠点に祀られたのか、それはわかりません。ただ、乙川沿いに建つ菅生神社の社殿には、乙川上流にあった素盞嗚神社が川の氾濫で菅生神社まで流れ着き、天王社として合祀することになった、との逸話が残っていることからも、岡崎では荒ぶる川と素盞嗚にも深い関連があることが見て取れます。

 江戸時代までは現在よりもずっと海面が高く、今の名古屋あたりは海の中でした。熱田神宮をはじめ尾張一宮の真清田神社、宮簀媛(ミヤズヒメ)の父である乎止與命(オトヨノミコト)の邸宅があったとされる氷上姉子神社などの主要な神社は、海から見ると海岸線沿いの高台に建てられており、海のルートからその壮麗な姿を権力の象徴として見ることができたでしょう。つまり三河国はつい最近まで水の国であり、一帯を治めていた一族、王家からしたら海のルート、川のルートは非常に重要であり、龍や蛇の信仰が根深く残るには十分な土地であったとしても何の不思議もないわけです。
 
 歴史を考える上で、今の地形をそのまま見ているだけでは歴史はなかなかみえてこないですね。道しるべと言って、それが必ずしも地上の話とは言えない可能性、そして海からの別の勢力の抑えとして龍を塞の神として配置したのではないか、という考察をもって、今回の話を締めくくりたいと思います。

(文責S)

2017年4月1日土曜日

檜山君の考察

坂本様

こんにちは。今回、初めて、ブログを拝見し、浄瑠璃姫に関する記述を楽しく読ませて頂きました。私も、以前から浄瑠璃姫について関心を持っており、その歴史的価値に比べて現在の岡崎では不当に低く扱われている気がしていました。浄瑠璃姫物語は、日本の浄瑠璃の起源として、たくさんの研究者が研究しているのに。。。地元でもっと、盛り上げたいですね。私の知るところ、思うところを、少々書かせて頂きます。 

浄瑠璃姫物語は、600年以上にわったって、創作の上に創作が重ねられて非常に複雑多岐に拡がった「浄瑠璃姫ワールド」を形成しています(二次創作、三次創作、、と変奏曲のように発展させて楽しむのが、日本の物語形成の特徴ですネ)。昨年は、「君の名は。」というアニメが大ヒットして、舞台になった飛騨古川に全国からファンが殺到しましたが、江戸時代の岡崎は、そのような場所だったのではないでしょうか。全国の浄瑠璃姫ファンが聖地巡礼し(といっても、自由な通行が難しかった時代ですから、伊勢講で順番が回ってきたなど、限られた機会だったと思いますが)、物語に合わせて、碑を建てたり、新たな伝説ができたり。。

ですから、浄瑠璃姫伝説のどこまでが史実なのか、もうわからなくなっています。。おそらく、鳳来寺の薬師如来を讃える説教話に、実際に悲劇の内に亡くなっていった数多くの女性の人生が重ね合され(岡崎の街にも飯盛女と呼ばれたような下流の遊女もたくさんいたでしょうし、身売りで岡崎に来て身寄りもないままに亡くなって墓もあるかないかというような女性もたくさんいたことでしょう)、そこに、何人もの物語作者の想像が加わった結果なのでしょう。

 私は、このように広大で重層的に拡がる豊穣の「浄瑠璃姫ワールド」を岡崎のパラレルワールドとして、味わっていきたいなぁと考えています。

[矢作について]

現在の岡崎では、矢作町関係の歴史が軽く扱われている気がしているのは、考え過ぎでしょうか。例えば、観光案内所でも浄瑠璃姫や「やはぎ祭り」について、ほとんど資料を持っていないんです。特に、やはぎ祭りに出る山車は、半田の亀崎地区等と比べても遜色ない立派な物です。特に二区の山車の車輪は、大木を輪切りにした一枚板で作成した非常に珍しく貴重な物で、現在では材料が無く復元不可能と言われています。その他、日本武尊の矢作り伝説、日吉丸伝説、家康の三鹿の渡し伝説など、すべて矢作が舞台ですが、あまり岡崎市では宣伝されていない気がします。また、矢作川の中に眠る河床遺跡からは、古代から中世の祭祀用品などが大雨のたびに流出し、いまだに川原に打ち上げられていることがあります。

[江戸時代の岡崎]

江戸時代、岡崎と聞いて人々がイメージするのは、城ではなく矢作橋だったようです。当時、日本最長の巨大建造物でした。橋番付(ランキング)の横綱が西の錦帯橋に東の矢作橋。ですから、浮世絵に登場する岡崎は、たいてい、画面の3分の2ほどを矢作橋が占め、その奥に小さく城が描かれています。あとは、歌舞伎の「独道中五十三駅」の中で最も人気が高かった岡崎の化け猫の場面。相当人気だったらしく、かなり大量の浮世絵が残されています。田中吉政が造り上げた「二十七曲り」で城下町と宿場町が一体となって栄えた岡崎は、江戸から伊勢参りへ行く旅人にとっては、箱根や大井川の難所を超えてゴールが見えてきた一息つける場所。逆に江戸に行く人たちにとっては、江戸の入り口だったようです。その象徴が御馳走屋敷(岡崎藩の迎賓館)。江戸にのぼる朝鮮通信使一行を江戸幕府の役人が最初に出迎える正式な接待所でした。500名くらいの大行列が数か月かけて進んで行くわけですが、その間、ずっと立派な服を着て輿に載って歌舞音曲を続けていたはずもなく、田舎道では、地味に、そろそろと歩いていたはずです。でも、正式な接待所の前では、みな着替え、楽器を演奏しながら、巨大パレードを繰り広げたかも知れません。鎖国下の日本において、数十年に一回しか来ない外国使節を見ることは、かなりのビッグイベントだったに違いありません。大陸の最先端の流行や知識を求めて各地の学者や芸術家も集まって来て、岡崎がとてもホットな場所になったに違いありません。岡崎に観光スポットがたくさん作られたとしても不思議ではないと思います。それらは、ディズニーランドの中に「ミッキーの家」があるような感覚(?)でファンタジーの世界と交錯できるスポットだったのかも知れません。

[浄瑠璃姫の名前の由来]

浄瑠璃とは、浄い瑠璃のような世界を意味する仏教用語で、薬師如来のいる東方浄土のことです。三河の国司源中納言兼高とその妻の間に子供ができず、鳳来寺の鳳来寺の薬師瑠璃光如来に祈って授かった子なので、つけた名前です。

[浄瑠璃姫の霊力]

仏の力で授かった子供なので、不思議な霊力を持っていたとする物語もあります。

1、駿河国の吹上で死んだ義経を生きかえらせた。

2、三河国笹谷で義経が法華経と歌を回向したところ、姫の墓の五輪塔が砕けた。

など。

[浄瑠璃姫の墓(供養塔)など]

実は、多数あるのです。

1、誓願寺十王堂 義経が姫と一夜を過ごした館址であり、父親の兼高長者が浄瑠璃姫の遺体を葬ったとされる。木像を作り、義経が浄瑠璃姫に贈った名笛[薄墨]と姫の鏡を安置した。位牌がある。義経浄瑠璃姫画像もある。境内には浄瑠璃姫供養塔、侍女更科と冷泉の供養塔、兼高長者の供養塔が並ぶ。(籠田公園の西にも誓願寺がありますが、別の寺です)

2、成就院:浄瑠璃姫の死後、侍女の冷泉が尼になり、身を投げた場所(浄瑠璃渕)の前に草庵を立てて住み、菩提を弔ったのが起源とされる。戦乱で廃れていたものが、室町時代に水中から本尊(姫の父ゆかりの一光三尊阿弥陀如来)が発見され、成就院として再建されたと言われる。墓地の中に浄瑠璃姫墓・侍女冷泉墓があり、脇には姫が身を投げた浄瑠璃ヶ淵。句碑「散る花に 流れもよどむ 姫の渕」。昭和の河川改修で撤去された穴観音、浄瑠璃姫の足跡石がどこにあるのか、わかりません。駅から近いのに、観光案内されてないのが残念。寺の方に聞きましたが、今は宗派が変わり、寺には浄瑠璃姫の話は残っていないようです。

3、岡崎城大手門前の浄瑠璃姫供養塔。浄瑠璃姫の遺体があがった場所で建てられ、後に城内に移された。駐車場の柵が置かれ、荒れ果てた状態なのが残念です。初代 市川団蔵(初代市川團十郎の弟子)の碑もあります。

4、六本榎光明院(浄瑠璃寺) 元は浄瑠璃姫曲輪付近にありました。義経画像、浄瑠璃姫画像と姫守本尊薬師如来があります。浄瑠璃姫の父兼高長者が瑠璃光山安西寺を開いたのが始まりとか、乳母の冷泉が建てたお寺ということになっています。浄瑠璃姫が父親に勘当されたて暮らしていた草庵の跡とする話の他、平家の目を逃れて隠れ住んだところとする話もあります。

5、安心院。義経が浄瑠璃姫の菩提を弔うために建てられたという妙大寺が始まりとする話もあり、義経公念持仏がありますが、下記のように、妙大寺を建てたのが浄瑠璃姫とする話もあります。

6、西本願寺三河別院 侍女更科の供養塔があります。浄瑠璃姫が月を愛でた観月荘の跡という碑が建っています。

7、豊田市福林寺(阿弥陀院)兼高長者夫婦の墓がある。

8、下記のように浄瑠璃姫は鳳来寺で亡くなったとする話もあり、鳳来寺にも浄瑠璃姫の祠があります。

9、浄瑠璃姫関係の遺跡は岡崎市内や周辺に留まりません。実は、下記のとおり、静岡で亡くなったという話もあり、静岡市内の吹上にも浄瑠璃姫の墓があるのです。

10、さらに、青森で亡くなったとする話もあり、貴船神社に浄瑠璃姫の石碑があります。

[その他、浄瑠璃姫にちなんだ物]

1、麝香池・麝香塚 
義経が浄瑠璃姫の遺品の麝香を沈めた(若しくは祀った)麝香池(三島小学校敷地内)と、それを伝える麝香塚(自然科学研究機構の山手地区の駐車場付近に地名が残る。明治時代の畑拡張時に破壊され、石は六所神社の鳥居横の高宮神社の碑の礎石に流用)。麝香池の傍らに碑が建っていますが、敷地の外からは見えません。
2、腰掛石・猿岩
豊川の宮路山の中には、腰掛石(義経を追いかけた姫が疲れ果てて座った石)や猿岩(姫に、諦めて帰るように諭した猿が出て来た穴のある岩)があります。
3、千本塔婆供養の跡
明大寺町東山に千本・硯田の地名が残る。ただし、硯田は、よくある地名で、その名の通り、硯の形をした田んぼだったのではないでしょうか。今研究所が建つ土地を見るとそんな形です。千本というのも、死体置き場や墓場があった場所の地名として、各地にあります(京都の千本が有名)。
4、浄瑠璃姫の琴 岡崎市滝山寺
5、浄瑠璃姫の小袖で作った斗帳 岡崎市高隆寺
6、兼高長者の念持仏 豊田市薬王院
7、「薄墨の笛」は、実は静岡にもあります。

岡崎を発った義経は田子の浦付近で重病に罹り瀕死の状態になりました。それを八幡のお告げにより知った浄瑠璃姫は急いで駆けつけ、抱きしめて涙を流すと、義経は息を吹き返しました。さらに20日の介抱により病が本画的に回復した義経は、姫に母の常磐から貰った薄墨の笛を贈りました。姫はそれを久能寺に納めましたが、この寺が荒廃したため、現在は、山岡鉄舟が再建した清水市の「鉄舟寺」に所蔵されています。

[浄瑠璃姫の死因]

<岡崎で亡くなったバージョン>

1、義経を想う心は日ごとに募るばかりで、ついに後を追いかけた。しかし、女の足では到底追いつけず、添うに添われぬ恋の悲しみのあまり、菅生川(乙川)に身を投げて短い人生を終えた。浄瑠璃姫は寿永2年(1183)3月12日に乙川に入水自殺したという近世に地元で成立した話をふまえて、その600回忌にあたる安永10年(1781)3月の追善供養の引札(チラシ)を菅江真澄が執筆しました。

2、再会を待っていた姫は侍女もんじゅの虚言(義経は死んだ)を信じて自害し、娘の死を悲しんだ母は投身した。御曹司(義経)はもんじゅを殺し加茂川に沈めた。

<新城市の鳳来寺近くで亡くなったバージョン>

3、源平の戦いの後、追われる身になった義経が奥州を目指して三河を通ったとき、源氏にゆかりのある兼高長者の家に泊った。その夜、義経は姫の弾く琴に合わせて笛を吹き、一夜を過ごした。義経は、鳳来寺の千寿が峰で待っていて下さい、と言って去った。姫は千寿が峰の麓に庵を作って乳母とともに待ちましたが、義経は現れません。待ち焦がれていたある日のこと、義経は三日前に通って行ってしまったという噂を聞きました。

 姫ははかない恋を悲しんで自害してしまいました。村人は姫を哀れんで墓を立てて供養しました。

4、浄瑠璃姫物語の中でも古い「浄瑠璃御前物語」によれば、

蒲原宿に至った御曹司(義経)は恋の想いと疲れから重い病に伏した。宿の女房が彼を吹上の浜に棄てさせた。神の知らせで知った姫は冷泉(姫の乳母)と共に吹上の浜に急ぐ。氏神の使者である白鳩の案内で漸く砂中に瀕死の御曹司を見つけ、嘆き悲しみ神々に祈誓すると、薬師の利生の姫の涙で御曹司は蘇った。二人は喜び数日を経たが再び別れの時を迎え、御曹司の招いた天狗の羽交に乗じて姫達は矢矧に飛び帰り、御曹司は旅を重ねて奥州平泉藤原秀衡のもとに至った。

 姫には、いずれ大名から婿を取ることを考えていた母の長者は、姫が金売吉次の供で馬引きの召使(実は義経。変装していた)と一夜の契りを結んだことを口惜しく思い、ましてや後を慕うことなど無念たぐいなしと怒り、「いずこなりとも紛れ行け」と追い出してしまった。

 涙に濡れて矢矧の宿を出た姫は、冷泉と共に鳳来寺の奥の笹谷に至り、細い竹の柱と笹の葉を敷いた粗末な小屋を建てて住み、食べ物もなく沢の根芹や里田の落穂を拾い露の命を送らせていたが、遂に亡くなった。

 吹上の浜で別れてから三年後、御曹司は軍勢を催し上京の途次矢矧の宿を訪ねるが姫はその時既に亡く、尼となった冷泉に案内され笹谷の墓所を訪ねた御曹司が供養すると、御墓は三度揺れてから五輪が三つに砕け、一つは御曹司の右の袂に飛び込み、一つは金色の光を放って虚空へ飛んで行き、後の一つは御墓の印となって姫は成仏した。

 その跡に寺を建立して冷泉寺と名付け、寺領を添えて冷泉に与えた御曹司は、姫を棄てさせた母に縄をかけ、矢矧川で荒簀(あらす)に巻き水の中に入れて罰した(残酷な話ですね)。

<静岡で亡くなったバージョン>

5、静岡市まで追いかけて行き、疲れ果てて亡くなった。

実際に静岡市内に浄瑠璃姫の墓があります。場所は、静岡県静岡市清水区蒲原新栄六本松公園北側。昔、浄瑠璃姫、矢作より義経を慕って東へ下る時、この地で疲れ死んだ。里人は姫の死を哀んで丁重に葬り、塚の印にと松を6本植えおいたそうです。

<青森で亡くなったバージョン>

6、義経が逃れたという伝説が残る青森には、浄瑠璃姫の伝説も残ります。兄頼朝よりともからの難を逃れた義経が、海へ出て北上し八戸の松崎海岸へ上陸した。その後、蝦夷地に渡るため陸路をたどる途中、「貴船神社」があることを知り、京都で幼少期を過ごした鞍馬の貴船神社と同名なので懐かしさもあって旅の無事を祈願した。 そのころ義経を慕って来た浄瑠璃姫と再会。しかし、旅の疲れから姫は亡くなった。義経は、姫を神社の裏山に埋葬し塚を建てた。

[明大寺との関係]

瑠璃山光明院の縁起に「持仏堂の地は浄瑠璃姫が阿弥陀仏を安置して東旭真光の二坊を建てたる所なるが、西郷氏の城郭を築くに至り地を代えしめんとしたのに本尊動かず、よってそのまま祈祷所とした。信貞が城を広むる時、多くの地を寄進して之を三の丸に移した。よってその地を浄瑠璃曲輪という。」つまり、姫が明大寺を立てたという話になっています。

連歌師の柴田屋軒宗長(そうちょう)が記した『宗長手記』の大永7年(1527)5月には、「それより矢矧の渡りして妙大寺 むかしの浄瑠璃御前跡 松のみ残て東海道の名残 命こそながめ待つれ いまは岡崎といふ松平次郎三郎(家康の祖父清康)の家城なり」とあります。これは、大永 4年に西郷信貞の山中城を攻め落とし、その娘の於波留を嫁とすることで、信貞の婿となり、西郷氏が住む旧岡崎城(明大寺地区)へ移った時期のことで、この時、旧岡崎城周辺は戦火を浴びていなかったはずなので、妙大寺と旧岡崎城は併存していたのではないでしょうか。境内の大半は城になってしまっていたかも知れませんが。

六所神社の配置を見て不自然なのは、本殿が参道の突き当りではなく、左に90度曲がった位置にあることです。六所神社は清康が松平氏発祥の地である松平郷から神を勧請して創建した神社なので、本殿の位置に、何か霊験あらたかな自然物があった、といった理由は考えられず、元からあった建造物を利用したためではないかと推測しています。あの立派な石垣は様式から見て後世の物ですが、その元になる城郭の古い石垣があったのではないかと推測しています。

[多摩の浄瑠璃姫]

興味深いことに、多摩地方には、別の浄瑠璃姫伝説があります。大磯の漁師が海から引き揚げた薬師如来を平塚城主岡崎四郎が譲り受け、拝んだところ授かったのが浄瑠璃姫。小山田高家の側室となったが、戦乱で逃げ切れず薬師如来を背負って長池(現・多摩ニュータウン内)で入水自殺した。その後、薬師如来を引き上げた僧が薬師堂を建てて供養した。岡崎の浄瑠璃姫の話と微妙に重なりますね。おそらく、本家浄瑠璃姫伝説の影響を受けているのではないでしょうか。

檜山武史(2017年4月1日)