坂本様
こんにちは。今回、初めて、ブログを拝見し、浄瑠璃姫に関する記述を楽しく読ませて頂きました。私も、以前から浄瑠璃姫について関心を持っており、その歴史的価値に比べて現在の岡崎では不当に低く扱われている気がしていました。浄瑠璃姫物語は、日本の浄瑠璃の起源として、たくさんの研究者が研究しているのに。。。地元でもっと、盛り上げたいですね。私の知るところ、思うところを、少々書かせて頂きます。
浄瑠璃姫物語は、600年以上にわったって、創作の上に創作が重ねられて非常に複雑多岐に拡がった「浄瑠璃姫ワールド」を形成しています(二次創作、三次創作、、と変奏曲のように発展させて楽しむのが、日本の物語形成の特徴ですネ)。昨年は、「君の名は。」というアニメが大ヒットして、舞台になった飛騨古川に全国からファンが殺到しましたが、江戸時代の岡崎は、そのような場所だったのではないでしょうか。全国の浄瑠璃姫ファンが聖地巡礼し(といっても、自由な通行が難しかった時代ですから、伊勢講で順番が回ってきたなど、限られた機会だったと思いますが)、物語に合わせて、碑を建てたり、新たな伝説ができたり。。
ですから、浄瑠璃姫伝説のどこまでが史実なのか、もうわからなくなっています。。おそらく、鳳来寺の薬師如来を讃える説教話に、実際に悲劇の内に亡くなっていった数多くの女性の人生が重ね合され(岡崎の街にも飯盛女と呼ばれたような下流の遊女もたくさんいたでしょうし、身売りで岡崎に来て身寄りもないままに亡くなって墓もあるかないかというような女性もたくさんいたことでしょう)、そこに、何人もの物語作者の想像が加わった結果なのでしょう。
私は、このように広大で重層的に拡がる豊穣の「浄瑠璃姫ワールド」を岡崎のパラレルワールドとして、味わっていきたいなぁと考えています。
[矢作について]
現在の岡崎では、矢作町関係の歴史が軽く扱われている気がしているのは、考え過ぎでしょうか。例えば、観光案内所でも浄瑠璃姫や「やはぎ祭り」について、ほとんど資料を持っていないんです。特に、やはぎ祭りに出る山車は、半田の亀崎地区等と比べても遜色ない立派な物です。特に二区の山車の車輪は、大木を輪切りにした一枚板で作成した非常に珍しく貴重な物で、現在では材料が無く復元不可能と言われています。その他、日本武尊の矢作り伝説、日吉丸伝説、家康の三鹿の渡し伝説など、すべて矢作が舞台ですが、あまり岡崎市では宣伝されていない気がします。また、矢作川の中に眠る河床遺跡からは、古代から中世の祭祀用品などが大雨のたびに流出し、いまだに川原に打ち上げられていることがあります。
[江戸時代の岡崎]
江戸時代、岡崎と聞いて人々がイメージするのは、城ではなく矢作橋だったようです。当時、日本最長の巨大建造物でした。橋番付(ランキング)の横綱が西の錦帯橋に東の矢作橋。ですから、浮世絵に登場する岡崎は、たいてい、画面の3分の2ほどを矢作橋が占め、その奥に小さく城が描かれています。あとは、歌舞伎の「独道中五十三駅」の中で最も人気が高かった岡崎の化け猫の場面。相当人気だったらしく、かなり大量の浮世絵が残されています。田中吉政が造り上げた「二十七曲り」で城下町と宿場町が一体となって栄えた岡崎は、江戸から伊勢参りへ行く旅人にとっては、箱根や大井川の難所を超えてゴールが見えてきた一息つける場所。逆に江戸に行く人たちにとっては、江戸の入り口だったようです。その象徴が御馳走屋敷(岡崎藩の迎賓館)。江戸にのぼる朝鮮通信使一行を江戸幕府の役人が最初に出迎える正式な接待所でした。500名くらいの大行列が数か月かけて進んで行くわけですが、その間、ずっと立派な服を着て輿に載って歌舞音曲を続けていたはずもなく、田舎道では、地味に、そろそろと歩いていたはずです。でも、正式な接待所の前では、みな着替え、楽器を演奏しながら、巨大パレードを繰り広げたかも知れません。鎖国下の日本において、数十年に一回しか来ない外国使節を見ることは、かなりのビッグイベントだったに違いありません。大陸の最先端の流行や知識を求めて各地の学者や芸術家も集まって来て、岡崎がとてもホットな場所になったに違いありません。岡崎に観光スポットがたくさん作られたとしても不思議ではないと思います。それらは、ディズニーランドの中に「ミッキーの家」があるような感覚(?)でファンタジーの世界と交錯できるスポットだったのかも知れません。
[浄瑠璃姫の名前の由来]
浄瑠璃とは、浄い瑠璃のような世界を意味する仏教用語で、薬師如来のいる東方浄土のことです。三河の国司源中納言兼高とその妻の間に子供ができず、鳳来寺の鳳来寺の薬師瑠璃光如来に祈って授かった子なので、つけた名前です。
[浄瑠璃姫の霊力]
仏の力で授かった子供なので、不思議な霊力を持っていたとする物語もあります。
1、駿河国の吹上で死んだ義経を生きかえらせた。
2、三河国笹谷で義経が法華経と歌を回向したところ、姫の墓の五輪塔が砕けた。
など。
[浄瑠璃姫の墓(供養塔)など]
実は、多数あるのです。
1、誓願寺十王堂 義経が姫と一夜を過ごした館址であり、父親の兼高長者が浄瑠璃姫の遺体を葬ったとされる。木像を作り、義経が浄瑠璃姫に贈った名笛[薄墨]と姫の鏡を安置した。位牌がある。義経浄瑠璃姫画像もある。境内には浄瑠璃姫供養塔、侍女更科と冷泉の供養塔、兼高長者の供養塔が並ぶ。(籠田公園の西にも誓願寺がありますが、別の寺です)
2、成就院:浄瑠璃姫の死後、侍女の冷泉が尼になり、身を投げた場所(浄瑠璃渕)の前に草庵を立てて住み、菩提を弔ったのが起源とされる。戦乱で廃れていたものが、室町時代に水中から本尊(姫の父ゆかりの一光三尊阿弥陀如来)が発見され、成就院として再建されたと言われる。墓地の中に浄瑠璃姫墓・侍女冷泉墓があり、脇には姫が身を投げた浄瑠璃ヶ淵。句碑「散る花に 流れもよどむ 姫の渕」。昭和の河川改修で撤去された穴観音、浄瑠璃姫の足跡石がどこにあるのか、わかりません。駅から近いのに、観光案内されてないのが残念。寺の方に聞きましたが、今は宗派が変わり、寺には浄瑠璃姫の話は残っていないようです。
3、岡崎城大手門前の浄瑠璃姫供養塔。浄瑠璃姫の遺体があがった場所で建てられ、後に城内に移された。駐車場の柵が置かれ、荒れ果てた状態なのが残念です。初代 市川団蔵(初代市川團十郎の弟子)の碑もあります。
4、六本榎光明院(浄瑠璃寺) 元は浄瑠璃姫曲輪付近にありました。義経画像、浄瑠璃姫画像と姫守本尊薬師如来があります。浄瑠璃姫の父兼高長者が瑠璃光山安西寺を開いたのが始まりとか、乳母の冷泉が建てたお寺ということになっています。浄瑠璃姫が父親に勘当されたて暮らしていた草庵の跡とする話の他、平家の目を逃れて隠れ住んだところとする話もあります。
5、安心院。義経が浄瑠璃姫の菩提を弔うために建てられたという妙大寺が始まりとする話もあり、義経公念持仏がありますが、下記のように、妙大寺を建てたのが浄瑠璃姫とする話もあります。
6、西本願寺三河別院 侍女更科の供養塔があります。浄瑠璃姫が月を愛でた観月荘の跡という碑が建っています。
7、豊田市福林寺(阿弥陀院)兼高長者夫婦の墓がある。
8、下記のように浄瑠璃姫は鳳来寺で亡くなったとする話もあり、鳳来寺にも浄瑠璃姫の祠があります。
9、浄瑠璃姫関係の遺跡は岡崎市内や周辺に留まりません。実は、下記のとおり、静岡で亡くなったという話もあり、静岡市内の吹上にも浄瑠璃姫の墓があるのです。
10、さらに、青森で亡くなったとする話もあり、貴船神社に浄瑠璃姫の石碑があります。
[その他、浄瑠璃姫にちなんだ物]
1、麝香池・麝香塚
義経が浄瑠璃姫の遺品の麝香を沈めた(若しくは祀った)麝香池(三島小学校敷地内)と、それを伝える麝香塚(自然科学研究機構の山手地区の駐車場付近に地名が残る。明治時代の畑拡張時に破壊され、石は六所神社の鳥居横の高宮神社の碑の礎石に流用)。麝香池の傍らに碑が建っていますが、敷地の外からは見えません。
2、腰掛石・猿岩
豊川の宮路山の中には、腰掛石(義経を追いかけた姫が疲れ果てて座った石)や猿岩(姫に、諦めて帰るように諭した猿が出て来た穴のある岩)があります。
3、千本塔婆供養の跡
明大寺町東山に千本・硯田の地名が残る。ただし、硯田は、よくある地名で、その名の通り、硯の形をした田んぼだったのではないでしょうか。今研究所が建つ土地を見るとそんな形です。千本というのも、死体置き場や墓場があった場所の地名として、各地にあります(京都の千本が有名)。
4、浄瑠璃姫の琴 岡崎市滝山寺
5、浄瑠璃姫の小袖で作った斗帳 岡崎市高隆寺
6、兼高長者の念持仏 豊田市薬王院
7、「薄墨の笛」は、実は静岡にもあります。
岡崎を発った義経は田子の浦付近で重病に罹り瀕死の状態になりました。それを八幡のお告げにより知った浄瑠璃姫は急いで駆けつけ、抱きしめて涙を流すと、義経は息を吹き返しました。さらに20日の介抱により病が本画的に回復した義経は、姫に母の常磐から貰った薄墨の笛を贈りました。姫はそれを久能寺に納めましたが、この寺が荒廃したため、現在は、山岡鉄舟が再建した清水市の「鉄舟寺」に所蔵されています。
[浄瑠璃姫の死因]
<岡崎で亡くなったバージョン>
1、義経を想う心は日ごとに募るばかりで、ついに後を追いかけた。しかし、女の足では到底追いつけず、添うに添われぬ恋の悲しみのあまり、菅生川(乙川)に身を投げて短い人生を終えた。浄瑠璃姫は寿永2年(1183)3月12日に乙川に入水自殺したという近世に地元で成立した話をふまえて、その600回忌にあたる安永10年(1781)3月の追善供養の引札(チラシ)を菅江真澄が執筆しました。
2、再会を待っていた姫は侍女もんじゅの虚言(義経は死んだ)を信じて自害し、娘の死を悲しんだ母は投身した。御曹司(義経)はもんじゅを殺し加茂川に沈めた。
<新城市の鳳来寺近くで亡くなったバージョン>
3、源平の戦いの後、追われる身になった義経が奥州を目指して三河を通ったとき、源氏にゆかりのある兼高長者の家に泊った。その夜、義経は姫の弾く琴に合わせて笛を吹き、一夜を過ごした。義経は、鳳来寺の千寿が峰で待っていて下さい、と言って去った。姫は千寿が峰の麓に庵を作って乳母とともに待ちましたが、義経は現れません。待ち焦がれていたある日のこと、義経は三日前に通って行ってしまったという噂を聞きました。
姫ははかない恋を悲しんで自害してしまいました。村人は姫を哀れんで墓を立てて供養しました。
4、浄瑠璃姫物語の中でも古い「浄瑠璃御前物語」によれば、
蒲原宿に至った御曹司(義経)は恋の想いと疲れから重い病に伏した。宿の女房が彼を吹上の浜に棄てさせた。神の知らせで知った姫は冷泉(姫の乳母)と共に吹上の浜に急ぐ。氏神の使者である白鳩の案内で漸く砂中に瀕死の御曹司を見つけ、嘆き悲しみ神々に祈誓すると、薬師の利生の姫の涙で御曹司は蘇った。二人は喜び数日を経たが再び別れの時を迎え、御曹司の招いた天狗の羽交に乗じて姫達は矢矧に飛び帰り、御曹司は旅を重ねて奥州平泉藤原秀衡のもとに至った。
姫には、いずれ大名から婿を取ることを考えていた母の長者は、姫が金売吉次の供で馬引きの召使(実は義経。変装していた)と一夜の契りを結んだことを口惜しく思い、ましてや後を慕うことなど無念たぐいなしと怒り、「いずこなりとも紛れ行け」と追い出してしまった。
涙に濡れて矢矧の宿を出た姫は、冷泉と共に鳳来寺の奥の笹谷に至り、細い竹の柱と笹の葉を敷いた粗末な小屋を建てて住み、食べ物もなく沢の根芹や里田の落穂を拾い露の命を送らせていたが、遂に亡くなった。
吹上の浜で別れてから三年後、御曹司は軍勢を催し上京の途次矢矧の宿を訪ねるが姫はその時既に亡く、尼となった冷泉に案内され笹谷の墓所を訪ねた御曹司が供養すると、御墓は三度揺れてから五輪が三つに砕け、一つは御曹司の右の袂に飛び込み、一つは金色の光を放って虚空へ飛んで行き、後の一つは御墓の印となって姫は成仏した。
その跡に寺を建立して冷泉寺と名付け、寺領を添えて冷泉に与えた御曹司は、姫を棄てさせた母に縄をかけ、矢矧川で荒簀(あらす)に巻き水の中に入れて罰した(残酷な話ですね)。
<静岡で亡くなったバージョン>
5、静岡市まで追いかけて行き、疲れ果てて亡くなった。
実際に静岡市内に浄瑠璃姫の墓があります。場所は、静岡県静岡市清水区蒲原新栄六本松公園北側。昔、浄瑠璃姫、矢作より義経を慕って東へ下る時、この地で疲れ死んだ。里人は姫の死を哀んで丁重に葬り、塚の印にと松を6本植えおいたそうです。
<青森で亡くなったバージョン>
6、義経が逃れたという伝説が残る青森には、浄瑠璃姫の伝説も残ります。兄頼朝よりともからの難を逃れた義経が、海へ出て北上し八戸の松崎海岸へ上陸した。その後、蝦夷地に渡るため陸路をたどる途中、「貴船神社」があることを知り、京都で幼少期を過ごした鞍馬の貴船神社と同名なので懐かしさもあって旅の無事を祈願した。 そのころ義経を慕って来た浄瑠璃姫と再会。しかし、旅の疲れから姫は亡くなった。義経は、姫を神社の裏山に埋葬し塚を建てた。
[明大寺との関係]
瑠璃山光明院の縁起に「持仏堂の地は浄瑠璃姫が阿弥陀仏を安置して東旭真光の二坊を建てたる所なるが、西郷氏の城郭を築くに至り地を代えしめんとしたのに本尊動かず、よってそのまま祈祷所とした。信貞が城を広むる時、多くの地を寄進して之を三の丸に移した。よってその地を浄瑠璃曲輪という。」つまり、姫が明大寺を立てたという話になっています。
連歌師の柴田屋軒宗長(そうちょう)が記した『宗長手記』の大永7年(1527)5月には、「それより矢矧の渡りして妙大寺 むかしの浄瑠璃御前跡 松のみ残て東海道の名残 命こそながめ待つれ いまは岡崎といふ松平次郎三郎(家康の祖父清康)の家城なり」とあります。これは、大永 4年に西郷信貞の山中城を攻め落とし、その娘の於波留を嫁とすることで、信貞の婿となり、西郷氏が住む旧岡崎城(明大寺地区)へ移った時期のことで、この時、旧岡崎城周辺は戦火を浴びていなかったはずなので、妙大寺と旧岡崎城は併存していたのではないでしょうか。境内の大半は城になってしまっていたかも知れませんが。
六所神社の配置を見て不自然なのは、本殿が参道の突き当りではなく、左に90度曲がった位置にあることです。六所神社は清康が松平氏発祥の地である松平郷から神を勧請して創建した神社なので、本殿の位置に、何か霊験あらたかな自然物があった、といった理由は考えられず、元からあった建造物を利用したためではないかと推測しています。あの立派な石垣は様式から見て後世の物ですが、その元になる城郭の古い石垣があったのではないかと推測しています。
[多摩の浄瑠璃姫]
興味深いことに、多摩地方には、別の浄瑠璃姫伝説があります。大磯の漁師が海から引き揚げた薬師如来を平塚城主岡崎四郎が譲り受け、拝んだところ授かったのが浄瑠璃姫。小山田高家の側室となったが、戦乱で逃げ切れず薬師如来を背負って長池(現・多摩ニュータウン内)で入水自殺した。その後、薬師如来を引き上げた僧が薬師堂を建てて供養した。岡崎の浄瑠璃姫の話と微妙に重なりますね。おそらく、本家浄瑠璃姫伝説の影響を受けているのではないでしょうか。
檜山武史(2017年4月1日)
0 件のコメント:
コメントを投稿