浄瑠璃と言われたら、いわゆる人形浄瑠璃などの日本伝統芸能をイメージされるかもしれませんが、もともと浄瑠璃とは、東方にあると言われる薬師如来の「東方浄瑠璃浄土」にちなむ言葉です。「浄」は清らかという意味、「瑠璃」はもともとサンスクリット語のバイドゥーリヤ(漢音写:吠瑠璃)という青い宝石(ラピスラズリもしくはサファイアか)を指し、薬師如来の治める死後の世界(浄土)は瑠璃で豪奢に装飾されている、という考えのようです。だから薬師如来信仰の浄土は、別名「瑠璃光世界」と言われます。
薬師如来は神道の神々との関連も深く、たとえば神仏習合の折、熊野速玉宮のご祭神である熊野速玉大神に本地仏として与えられたのが薬師如来であり、かの日光東照宮のご祭神である徳川家康(東照大権現)の本地仏も薬師如来です。これは、家康公のご母堂である於大の方(おだいのかた)が、愛知県新城市の鳳来寺の薬師如来を参ったことで家康公を授かった、という逸話から、家康公を薬師如来の化身、としたのだと思います。薬師如来は東方にある浄瑠璃世界にあって衆生の病苦を救う「医王」と考えられていました。単独像として祀られることもありますが、最も有名なのは奈良薬師寺の国宝では薬師如来を中尊に据え、脇侍として「日光菩薩」と「月光菩薩」を添えた薬師三尊として祀られている姿です。
閑話休題。浄瑠璃に戻りましょう。
伝統芸能の「浄瑠璃」とは、「平家物語」など物語を三味線や琵琶の演奏に合わせて語る「語り物」です。いわゆる霊験譚や民間伝承を法師が楽器片手に語っていたのが浄瑠璃のスタンダードな姿ですが、浄瑠璃が始まりだした鎌倉時代当初は楽器はなく、言葉だけで謳いあげるのが浄瑠璃の姿でした。その古くから語られてきた浄瑠璃の演目で有名なのがこの「浄瑠璃御前物語(浄瑠璃姫十二段草子)」であり、岡崎を舞台としたものです。この曲は広く大衆の支持厚く、語り物全般が「浄瑠璃」と呼ばれるようになりました。
浄瑠璃物語の中身はこんな感じ。
昔、岡崎の長者であり矢作川沿いに居を構えていた兼高長者は長く子供を授からず、薬師如来に祈ってようやく授かった娘に「浄瑠璃」と名付けます。浄瑠璃姫は16歳の時、奥州征伐の途中で立ち寄った源義経(牛若丸)に見初められ、ほぼ強引に押し切られ、一夜を共にすることになります。次の日義経は早々に旅立つのですが、静岡で大病をし、仲間に置き去りにされます。義経の危機をお告げで知った浄瑠璃姫は彼を助けに向かい、彼女の介抱によって義経は快方に向います。旅立ちの際、義経は彼女に「薄墨」という名笛と麝香(じゃこう)を預け、再会を誓います。しかしその後家に戻った浄瑠璃姫は両親から幽閉され、義経を待つことなく菅生川に身を投げ17歳で亡くなります。その後岡崎の地に戻った義経は既に姫が亡くなったことを知り、姫の弔いに「妙大寺(地名である明大寺はこの名残り)」を建立、そして千本の卒塔婆を立てます。そして姫の両親は、姫の魂の浄化を祈り、矢作町にある誓願寺に十王堂を建立しました。十王とはあの世の入り口の審判をしている10名の裁判官を指し、一番有名なのが閻魔様です。
ちなみに千本の卒塔婆に経を書き付ける際の墨を擦った硯は自然科学研究機構山手キャンパスの土地に祀られ、現在は硯台という地名でのみ確認することができます。また姫が義経より預かり肌身離さず持っていた麝香は、現三島小学校の敷地内にある麝香池の畔りに麝香塚として祀られました。これも山手キャンパスの隣に位置します。麝香塚は宅地開発で潰されてしまいましたが、塚の石垣は東岡崎駅前東側にある六所神社山道、高宮神社の碑の基礎にされているため、今でも実際に触れて確かめることができます。
16歳のまだまだ若く、しかも最初は強引に口説かれた美しい女性が男性の危機を救うまでの行為に対し、親の出した結論が幽閉とはなかなか厳しいものがありますし、何より娘の入水後、この両親はお弔いと称し、娘の眠る寺院に十王堂を建てています。十王信仰とは死者が地獄や六道へ堕ちないよう10名の裁判官を祀ることで、できる限りその審判を軽くしてもらおう、というのが主な目的の信仰です。つまりこの両親は、娘が「生前の罪」で六道の輪廻や地獄へ堕ちる可能性がある、と考えているのです。現在十王の名は市役所付近の町名として残っているのですが、その隣町である「六地蔵」という地名もこの十王にまつわる地名です。十王の裁きによって六道に堕ちた衆生を救うため、6つの世界それぞれにいらっしゃるのが6名の地蔵です。結局両親の中では、娘は六道の輪廻に堕ちたと判断されたのでしょうか。彼女の行為がそこまでの罪なのか私には分かりませんが、心から彼女を可哀想だなと思います。
さて、山手キャンパスのみならず、浄瑠璃姫にまつわる遺構は岡崎市内にたくさんあります。特に十王町にある三河別院の西院は、姫の笛の音を追って辿り着いた義経を姫がもてなした「観月荘跡」と言われ、今でも裏手にひっそりと碑と月を映したであろう大きな亀型の手水鉢が置かれています。
義経がここを訪れた時は十五夜であったようで、この手水鉢に映る月を眺める二人の姿はそれは儚くも美しかったことでしょう。この時姫の吹いた笛は義経の名笛「薄墨」であり、これまた幸薄そうな銘なのですが、姫が義経より預かった名笛としてやはり誓願寺十王堂に安置されているそうです。しかし義経の薄墨は、静岡県静岡市清水町にある臨済宗の寺「鉄舟寺(前 久能寺)」に現存しており、こちらはきちんと重要文化財として修復・保存されています。つまりこの浄瑠璃姫伝説自体、別の逸話を義経伝説に置き換えたものか、または完全に後世の創作である可能性もあるのではないかな、とも思います。
しかしこうして改めてみてみると、岡崎と薬師如来信仰の歴史は思っていた以上に根深そうですね。 何より以前真福寺について書いた際、ご神体は井戸だと書きましたが、この井戸自体が水体薬師、とされています。物部から家康まで、一貫して薬師如来の息吹が残っている上、町の名として十王や六道など、とにかくやたらと黄泉の世界の匂いまで漂うこの岡崎という土地、とってもとっても意味深な場所だと思います。
(文責S)
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