六所神社 ご祭神
塩土老翁神,猿田彦神,衝立船戸神,興玉神,事勝国勝長狭命
塩土老翁神は、武甕槌(タケミカヅチ)と経津主神(フツヌシノカミ)が諸国平定する際に道案内をした神。道しるべの神であり、製塩の神です。つまり海の神ですね。総本宮は宮城県の鹽竈神社であり、六所境内には鹽竈神社から頂いた桜が植樹されています。
猿田彦神は天照大神に派遣された瓊瓊杵尊の道案内をした神。八咫鏡の元伊勢探しの旅では、猿田彦の子孫である大田命が一行を先導して案内し、五十鈴川の一帯を献上したことが「倭姫命世記」に記載されています。
衝立船戸神は別名岐の神(クナトノカミ)と言い、外からの悪霊の侵入を防ぐ神。日本書紀や古語拾遺選では猿田彦と同神と言われています。いわゆる塞の神。日本書紀では黄泉比良坂で伊奘冉から逃げてきた伊奘諾が「来るな」と言って投げつけた杖が来名戸祖神(クナトノサエノカミ)となったと書かれているところ、古事記では「衝立船戸神」と書かれています。
興玉神(オキタマノカミ)はあまり知られていませんが、とても由緒ある神です。伊勢神宮内宮正宮の守護神として正宮御垣内に鎮座されています。猿田彦の子孫で五十鈴川一帯を献上した大田命の別名とも言われます。ちなみに内宮正宮には他に宮比神(ミヤビノカミ:猿田彦の妻である天鈿女の別名という説もある)と屋乃波比伎神(ヤノハヒキノカミ、今回の主役なので後述)の合わせて3神が祀られています。
事勝国勝長狭命は高千穂に天下った瓊瓊杵尊に笠狭崎で国を譲った神とされています。塩土老翁の別名という説もあります。
つまり六所神社の本質とは、海運に関わる道を示す神、悪霊が入リ込まないようにする塞の神、いわゆる守護の神としての性質を帯びていることがわかります。海と海運、製塩の塩土老翁、杖から生まれた岐神、五十鈴川の大田命、国津神の事勝国勝長狭命。ご祭神の性質をあげていくと、そこにはある一つの姿が結びつきます。それは「蛇神」の姿です。
風水や陰陽道に限らず、水と蛇、蛟、龍は非常に親和性が高いものとして古くから認知されてきました。それは荒々しく流れる急流の川や海の様々な生物の姿が龍の姿に比されたからでしょう。事実航海の無事や大漁を祈る神事の殆どは、全国レベルでどこを見ても龍神を祀ったものが多いですし、アニメ千と千尋でも川を神格化した姿が白龍として登場するなど、龍は水場に多く現れます。
大和(奈良あたり)から三河までの行程に船が用いられて来たことは、続日本紀に書かれた持統天皇の死の直前(大宝2年つまり704年)に行われた伊勢、尾張、三河行幸の記述からも見てとることができます。 この際持統天皇は伊勢的潟(湾の地形が変わっているため場所には諸説あり)から船に乗り、三河に入ったとされていますが、その船が到着した場所、というのが、豊川という説もあれば、矢作川河口付近の西尾市あたりから、という説もあります(穂積裕昌著「伊勢神宮の考古学」)。このように、海のルートの玄関口であった矢作川の走る岡崎市にも蛇(龍)の逸話が数多くあります。例えば有名なところでは矢作川と枝流である乙川が合わさる岡崎城のある場所は龍頭と言われ、龍城神社が建てられていますね。 また前回ご紹介した浄瑠璃姫伝説の中にも、蛇の象徴である「笛」が重要なアイテムとして出てきますし、浄瑠璃姫は川に入水自殺を遂げます(笛と蛇の関連性については、民俗学者の谷川健一氏の著書「蛇ー節と再生の民族」の中で指摘されています)。
矢作川、乙川は古くから水害がひどく、荒ぶる龍の姿が投影されていたとしても不思議ではありません。事実岡崎には籠田、龍城神社、龍海院、竜海、竜美、竜泉、竜谷など、「龍」と名のつく地名が非常に多く、岡崎城から北西に線を伸ばした先には竜神町、南東へ線を伸ばせば行き着く先は竹島の八大龍神社にあたります(日置様、情報心より御礼申し上げます!これが大きなヒントになりました)。ちなみに竜美(たつみ)とは恐らく辰巳の方位とイコールであると考えられます。つまり竜美とは辰巳であり、八大龍のいる南東方向を指すとともに辰(龍)と巳(蛇)そのままの意と考えられます。
つまりまとめると
1. 六所神社には龍にまつわる神、龍を連想させる神が多く祀られている。
2. 岡崎市には龍(竜)、蛇に関わる地名が多い。
3. 岡崎城から龍の地名をつなぐと竹島八大龍神社を先頭にした南東方向のラインとなる。
さて、この話を一つにまとめるにあたり、無視できない神がいます。それこそが満を持して登場する古代神、アラハバキ(荒脛巾神)です。ここに至るまで長かった。。
アラハバキは謎の神です。まず祀られている神社が少ないので、色んな人が好きな解釈をしています。しかしどうやらアラハバキは塩土老翁神と関連がある神であることは間違いないようです。鹽竈神社には摂社「阿良波々岐明神社」があります。ここでアラハバキは客人神と呼ばれ、旅人の足を守る「足の神」として尊崇を集めてきたと伝えられています。つまりアラハバキ=荒脛巾と当て字されたのはここらあたりが理由のようですね。
しかし、陰陽五行の専門家として名高い吉野裕子氏は別の解釈をしています。それはアラハバキという名は「蛇神」を示す、というものです。蛇の古語が「ハハ」と言うことから、ハハキとは「蛇木」であり、古くは直立する樹木を蛇に見立てて祭事を行ったことからこれをアラハバキという、としています。この直立する樹木を神ないし神の依代とみる姿はまさに古神道の神籬(ひもろぎ)の姿であり、私もこの説には賛成です。そしてこの姿はもうひとつ、衝立船戸神の杖ともよく似ています。杖に蛇とくればモーゼが持っていたアロンの杖、その姿も杖と蛇、ですね。モーゼが持つ杖とは生命の木の枝から作られた羊飼いの杖です。日本では羊飼いの杖?ビシッと叩くやつ?となるかもしれませんが、西洋では羊飼いの杖とは権力の象徴です。そして行先を示す神の御使、道しるべなのです。この杖の中の杖、杖オブ杖であるモーゼのアロンの杖には蛇が巻き付いています。これはモーゼが出エジプトの際、エジプトのファラオの前で自分の杖を蛇に変えたことから結びついたものと考えられます。ちなみにこの蛇は毒蛇であり、毒蛇の毒は薬にもなることから、医療のシンボルは杖の周りに2匹の毒蛇が巻き付いた姿で描かれます。要は杖と蛇、という図式は何も日本に限った話ではなく、世界的にあるものですよ、ということです。
もう一つ、民俗学者の谷川氏はアラハバキの塞の神、エミシの神としての性質を説いています。前述の 阿良波々岐明神社がエミシ制圧の拠点である多賀城のすぐ脇に祀られていることから、エミシの神であるアラハバキをエミシからの威力を避ける政策として祀ったのではないか、としています。事実、玉造柵にも荒脛神社が祀られており、これが防御の役割を示しているとしています。ここからいわゆる現代の塞の神である道祖神へと普及した、というのが彼の説であり、これは衝立船戸神や興玉神の持つ守護の性質と非常によく似ています。
加えて面白いことに、このアラハバキを祀る神社というのは、多くが近代に名を変えられてしまっているものが多く、アラハバキを祀っている、祀っていた記録の残る神社は、東北、関東、甲信越、三河の順に濃い分布をみせています。そしてかの「伊勢神宮」にもアラハバキにゆかりのある社があります。
それこそが、興玉神とともに伊勢神宮内宮正宮を守護する
「屋乃波比伎神(矢乃波波木神)」です。
内宮で祀られているこの神は、波波木神(ハハキノカミ)、波比岐神(ハヒキノカミ)とも言われ、内宮の南東、つまり「辰巳」の方角に祀られています。吉野裕子氏は、このことからこの波波木神が顕れることを顕波波木神(アラハバキ)としてその姿を蛇神と読んだのですが、これこそが正解なのではないでしょうか。
そして白川静は、「祀」という字自体を蛇神信仰となぞらえています。「巳(蛇)」を神として祀る姿、それこそが古代祭祀のルーツである、というわけです。
六所神社で祀られる多くの神。塩土老翁神、猿田彦、衝立船戸神、興玉神、 それら全てがアラハバキの姿と重なる。つまり、六所の本性はアラハバキであり、このアラハバキの本性は龍神なのではないか、というのが私の説です。
岡崎城のあるあたりが龍頭であり、アラハバキの頭であるならば、竹島の八大龍神社は龍の尾になります。尾が八つの龍、それは八岐大蛇の姿には比せられませんでしょうか。
スサノオが八岐大蛇を倒した時、尾から出たのが天叢雲剣、つまり熱田の御神体「草薙剣」です。そしてスサノオが大蛇を倒した十握剣、別名天羽々斬剣は、八岐大蛇の尾を咲いた際に尾の中にあった天叢雲剣に当たり欠けてしまいました。なぜ欠けたか。そしてなぜ龍を倒した勝者の剣である天羽々斬が神器となるのではなく、天叢雲剣が玉体の象徴である神器となったのか、それは八岐大蛇の剣が天孫族の持ち得ない技術であった製鉄技術の粋を極めた「鉄剣」だったからではないでしょうか。
事実、アラハバキは製鉄に関わる神、鍛治神、製鉄神としても崇められています。アラハバキとは荒吐(アラ)吹き(ブキ)に通じ、アラハバキの名のつく神社の側は砂鉄がでるところも少なくありません。伝統的な銅鉱精錬法の最初の段階で鉱石を吹き溶かすことを「アラブキ」といいます。古くは製鉄技術を異人の呪術とみなしていた時期がありました。これの証左となるか、鹽竈神社摂社の阿良波々岐明神社には鋏や鉄製品を奉納する習慣があります。
尾張物部をはじめとした饒速日一族が本来祀っていた神、それこそがアラハバキという龍神、蛇神だったのか、龍神信仰を持つこの一族自体をアラハバキと呼んでいたのか、それはわかりません。ただ、この岡崎に残る数々の国津神の息吹には龍の痕跡が明らかに残り、その本性はこの謎の神アラハバキとよく似ているのは事実であると思います。
矢作川から枝流の乙川沿いにかけて、素盞嗚尊(スサノオノミコト)の名を冠した神社が大小合わせて5社、そして素盞嗚尊が祀られた神社が多く存在しています。素盞嗚尊はもともとは父である伊奘諾から海を統治するように仰せつかった神です。矢作川は古くは一色町を流れる矢作古川を整備して今の形となったもので、江戸時代までは非常に水位が高くて深い、船での往来ができるくらいの大河でした。そしてよく氾濫を起こしていました。氾濫を鎮めるため、川沿いに素戔嗚尊が祀られたのか、そもそもこの辺りの一族が国津神の一派であったため、その祖である素戔嗚尊が川の道の拠点に祀られたのか、それはわかりません。ただ、乙川沿いに建つ菅生神社の社殿には、乙川上流にあった素盞嗚神社が川の氾濫で菅生神社まで流れ着き、天王社として合祀することになった、との逸話が残っていることからも、岡崎では荒ぶる川と素盞嗚にも深い関連があることが見て取れます。
江戸時代までは現在よりもずっと海面が高く、今の名古屋あたりは海の中でした。熱田神宮をはじめ尾張一宮の真清田神社、宮簀媛(ミヤズヒメ)の父である乎止與命(オトヨノミコト)の邸宅があったとされる氷上姉子神社などの主要な神社は、海から見ると海岸線沿いの高台に建てられており、海のルートからその壮麗な姿を権力の象徴として見ることができたでしょう。つまり三河国はつい最近まで水の国であり、一帯を治めていた一族、王家からしたら海のルート、川のルートは非常に重要であり、龍や蛇の信仰が根深く残るには十分な土地であったとしても何の不思議もないわけです。
歴史を考える上で、今の地形をそのまま見ているだけでは歴史はなかなかみえてこないですね。道しるべと言って、それが必ずしも地上の話とは言えない可能性、そして海からの別の勢力の抑えとして龍を塞の神として配置したのではないか、という考察をもって、今回の話を締めくくりたいと思います。
(文責S)