真福寺は、岡崎市真福寺町にある天台宗の寺院で、正しくは「靈鷲山降劔院真福寺」と書きます。聖徳太子が開基したとされる46箇所の寺院のうちのひとつで、物部守屋の息子である物部真福(まさち)の願いから推古天皇2年(594年)に造られたと伝わっています。本寺院の御本尊は通称水体薬師という名のついた薬師如来と言われていますが、御本尊の本来の姿が井戸であることは、あまり知られていません。太子と蘇我氏に討たれて敗走中の物部真福が、山中でここにこんこんと湧く泉を見つけ、これを御神体として祀ったことが最初のようで、今でも真福寺のお堂の真ん中に祀られているものはこの井戸そのものです。つまり寺と銘を打っていますが、その真の姿は正に自然神を祀る古神道そのものであり、さすが神祇を司る物部氏と言わざるを得ません。
また祀られているのは水だけでなく、真福寺では「八所神社」という名の神社も併設されています。この八所神社には奥の院があり、拝殿からさらに山を登った先に社があるのですが、本来はここに祠があったそうです。その祠がいつからあったのかは全くわからず、少なくとも寺が建立される以前には祠があったことがわかっています。面白いことに主祭神は迦具土神(カグツチ)、つまり火の神であり、寺の御本尊である井戸(水)とは対を成しています。このように火と水を合わせて祀る姿は、伊勢神宮の皇大神宮(内宮)と外宮の対の姿に代表される、太陽と水を神と仰ぎ豊穣と安寧を祈る原始宗教の姿そのものです。そしてこの姿は何も日本に限ったことではなく、拝火教であるゾロアスター教の原型ミトラ教や北欧神話など、いわゆるキリスト教の普及以前のアミニズム信仰の形にもみることができます。
さらに加えて、他祭神としていわゆる天孫系ではない出雲系の素戔嗚と大国主が合祀されていること、カグツチの表記が海外向け歴史書である日本書紀の表記「軻遇突智」ではなく国内向け歴史書である古事記の表記「迦具土」であること、境内に磐座として用いられたと推測できる巨石群が散在していること、などを総じて考えると、この岡崎という土地の神とは、天照大神に代表される天孫族の系譜の神々ではなく、古来より日本に定住していた、いわゆる日本土着の出雲系の神々が支配していた土地であると推察されます。これは、尾張氏の総社である尾張一宮「真清田神社」が祀る主祭神が、天孫族の祖であり日本へ最初に降り立ったとされる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)ではなく、彼より前に日本へ降り立った瓊瓊杵尊の兄、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)であることからも、容易に想像ができます。
物部氏の氏神はまさに饒速日命であり、饒速日命の子で物部氏の祖とされる宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)が物部の長の証として佩刀していた剣が、霊剣布都御魂劔(ふつのみたまのつるぎ)です。劔を振ると「フッ」と風を切る音がするくらい鋭かったためこの銘がつけられたといわれるこの劔は、現在奈良県天理市の石上神宮の御神体として祀られています。この石上神宮は劔の神社と言われ、草薙剣を含めた日本の霊剣・神剣の魂が一斉に祀られている神社であり、かつて物部氏の武器庫であったと考えられています。
ここで最初に述べた、真福寺の真の名「靈鷲山“降劔院”真福寺」を思い出してください。なぜ“降劔院”なのか寺の住職さんに訪ねたところ、昔本当に劔が奥の院に収蔵されていたことがわかりました。そしてその後、劔は三河富士として知られる村積山の山頂にある村積神社へ遷されたそうです。現在劔は岡崎市の所蔵となり、どこかで保管をされているそうですが、その行方は知る術がありません。
ここから先はあくまで私見ですが、私はどうしても想像せずにはいられないのです。物部守屋は物部氏の総大将でした。太子と蘇我に討たれた総大将亡き後、物部の総大将は息子である真福が継ぎ、総大将の証である劔は真福の手に渡ったのではないか。そして敗走する真福が終の地として天神山へたどり着き泉に救われ、長の証の劔そのものを祀った(隠した)のではないか。すると、もしかしたらこの地に祀られた劔こそ、伝説の霊剣布都御魂劔だったのではないか。
この劔が本当に現存するのか、それすら確認する術が無い以上、全ては憶測でしかありませんが、そんな想像を膨らませずにはいられない、とても不思議で面白い経緯を持つ史跡がこの岡崎にはあることを、私は皆さんに少しでも知ってもらいたいと思います。
(文責S)