能の舞台演目は多々あれど、中でも最も異質であり、正月にしかほぼ舞われることのない特別な演目が「翁(おきな)」です。翁は古くから「能にして能にあらず」と評された演目で、他の演目とは明らかに別格、つまり神聖なものとして扱われてきました。いつ・誰が作った演目であるのか、その由来は謎に包まれていますが、天下泰平、国土安寧を祈願する演目であると言われていることから、楽しむためのものというよりも、むしろ神事に近いものである思われます。この翁を舞う機会はとても少ないですが、そのうちのひとつが正月です。
翁は舞台で舞うその瞬間だけが全てではありません。翁を務める演者は上演前の約21日前より精進潔斎に入り、通常生活に使う火とは違う特別に清められた火を使って煮炊きされた食事を摂る生活を送ります。そして舞台当日は舞台の屋根の部分にしめ縄を張り巡らしたり、お神酒や米、粗塩、そして祭壇を備え、舞台全体を神域に仕立てます。舞は、翁、千歳、三番叟という三人の演者によって舞われますが、主役は翁と三番叟であり、千歳の役所は翁と三番叟の露払い(導く者)です。この舞が他の能の演目と全く違うのは、主役の二人が舞台の上で面を着けたり外したりする所作があるところです。通常能の舞台では演者は必ず舞台裏で面を着けてから登場しますが、翁役は面を着けずに登場します。舞台の上で翁役はひとつ舞を舞うと、舞台上で翁面(白式尉)を着け、さらにもうひと舞披露します。そして千歳に導かれ退出した翁と入れ替わり、同じく面を着けていない三番叟役が現れ、翁同様ひと舞舞った後、舞台上で黒式尉の面を着け、さらにもうひと舞舞うのです。翁と三番叟の役回りは、あたかも二人が陰陽を意味しているかのようにもみえますね。ちなみに一連の舞の間は観客すらも神事の一部とされ、客席の出入りは一切許されません。厳かな舞台空間はさながら異世界そのものです。難解な舞台ではありますが、この圧倒的な異世界感は、実際に体験してみるだけの価値があると思います。
日本の武道、舞台の多くには、神事の要素が含まれているものが多くあります。そしてそれらは古くからその真意がわかる、わからないに関わらず、達人達の手によって代々踏襲され、保存されてきました。その真意とは、実際に演じた人の数だけ、さらには居合わせた人の数だけ存在するのかもしれません。
みなさまもぜひ一度、能という日本の伝統芸能が連れて行ってくれる異世界を体験してみてください。異世界とは言っても、決して怖いものではありませんので大丈夫。正月だからこそ垣間見ることができる神様の世界を、隙間からそっと見せていただくのです。それはきっと素晴らしく清冽な世界だと思いますよ。