2019年11月13日水曜日

著者自身のアマゾンレビューを転載

本書の骨格としている「陰陽」という言葉には、スピリチュアル的で怪しげなイメージがつきまといます。しかし、本書における位置付けは「対立するもの同士を融和して、新しく強固なものを作りあげる」という比較的シンプルで実利的な考え方です。

この実利的な「陰陽」は、「陰陽五行」という形式で中国から輸入されるはるか以前から、日本では当たり前のように存在した比較的プリミティブな概念だったのではないかと想像しています。 東西、上下、内外、動静、喜怒、火水、日月、光闇、男女、敵味方、生死などは、一見対立するように見えて、実は根本でつながっている「二本でひとつ」の存在です。この世は複雑にできているように見えますが、基本的な構造は全て「二本でひとつ」。とてもシンプルです。そしてそれこそが科学の原初的な姿だったのです。

この柔軟なアイデアは、特に古代日本で対立する民族、対立する宗教を融和していくのに絶大な威力を発揮したことでしょう。シンプルが故に比較的マクロレベルにも拡張し易いのです。現代の日本にも脈々と流れています。何と何が二本セットなんだろうって、想像を膨らましていくと社会の成り立ちがみえてきます。

本書は、地図を拠り所にした推理モノの体をしていますが、底流には思想書としての骨格が見え隠れするように工夫してあります。そういった隠れキャラも含めて本書の「ロマン」を楽しんでくださいませ。



2019年10月8日火曜日

善光寺には人々の心が詰まってるのですよ

 ここのところ善光寺を調べておりました。それには理由がひとつありました。私たちの前著「ロマンで古代史は読み解けない」で諏訪大社を考察した際、諏訪大社は伊勢神宮の鬼門にあたるとしました。鬼門とは、北東の方位のことです。陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角とされています。北東は十二支でいうところの丑と寅の間、すなわち艮=うしとらに当たります。伊勢神宮の鬼門を諏訪大社が、そして裏鬼門を熊野三山が押さえているのではないかという仮説です。

 諏訪大社の天下の奇祭である御柱の開催年は六年ごとです。通例で七年ごとと数え年で表記されることが多いのですが、実際は満六年ごとです。その開催年は十二支でいうところの寅年と申年になります。伊勢の鬼門の位置にある諏訪の大祭が、なんと方向的にはほぼ鬼門裏鬼門に匹敵する年に行われているのです。なんだか陰陽道の香りがするではありませんか。とても面白い偶然の一致です。

 しかし、真の鬼門とは丑と寅の間のことです。寅や申だと、すこしズレています。そのズレを埋めてくれそうなのが善光寺だったのです。

 地図上では善光寺は諏訪大社の若干北東によりの北側に位置しています。その善光寺の秘仏中の秘仏、一光三尊阿弥陀如来の御開帳がなんと満六年に一度に行われています。恐ろしいことに、丑年と未年の開催です。御柱祭のちょうど一年前に行われますから、善光寺と諏訪大社をひとつに合わせれば、丑寅と申未の鬼門裏鬼門の祭りごとが信州の地に完成します。これって怪しさ満載ではないですか。調べない手はありません。

 調べ始めてすぐに善光寺と諏訪大社の只ならぬ関係が明らかになりました。下の地図を見ていただくと一目瞭然です。お寺である善光寺の四方を諏訪大社の支社である四つの神社が守っています。湯福神社(左上) 、妻科神社 (左下)、武井神社(右下) 、健御名方富命彦神別神社(右上)です。


善光寺を守る四つの神社(Google Map)



 湯福神社、妻科神社、武井神社は善光寺三鎮守と呼ばれています。それに健御名方富命彦神別神社 を加えて、善光寺の四方をがっちりと固めています。これらの善光寺を守る四つの神社は諏訪大社の御柱大祭と同じ年に御柱大祭を行います。四つの神社は持ち回りなので、それそれ二十四年という極めて長い周期で御柱祭を催しています。御柱は善光寺の周囲を引き回されますが、善光寺の正門ではきっとりと停止して善光寺に祈りを捧げます。神社が寺に祈りを捧げるのです。各神社に二本の御柱。本家の諏訪大社の御柱は四本で一セットとなり各ご神殿を守ります。善光寺を守る神社は自身を守るのではなく、2本+2本+2本+2本という形で善光寺を守っているのです。善光寺と諏訪神社は切っても切れない関係がありそうです。

 そもそも善光寺の御開帳のときも回向柱という御柱に似た柱を善光寺の中心に置き、一光三尊阿弥陀如来の身代わりとなる仏像と糸で結びます。柱の祭りとしても大いなる共通点があります。非常に変わった形ですが、これは神仏習合の一種と言いのではないでしょうか。私たちは熊野大社の完全なる神仏習合を見て、その上で諏訪大社を見たときに、諏訪大社では神仏習合が比較的進まなかったのではないかと思ったりしていたのですが、どうやらそれは間違った認識のようです。

 ではなぜ、このような変わった形の神仏習合が信州の地にできあがったのでしょう。その答えのヒントは、長尾晃氏の書かれた「善光寺コード」にありました。本では善光寺の秘密を著者の本業である建築の知識を生かして、まるでダビンチコードのように推理して解いていきます。善光寺と諏訪大社の関係もその中のひとつの疑問として推察されており、善光寺の出生の秘密を諏訪大社に求めています。詳細は本を読んでいただくとして、もしそれが本当だとすると、私たちしても腑に落ちるところがあります。

 「ロマンで古代史は読み解けない」の考え方のひとつに心理学があります。人の心の動きで歴史の動きを読むのです。古き人の心の動きを考えてみましょう。

 飛鳥時代、日本に仏教が伝来し国教として普及し始めました。そのころ、各地にあった神社で栄えていた神道はすでに成熟しつつありました。それらの神社を仕切っていた神官たちの気持ちを考えてみますと、仏教の普及は「私っていうのがありながら何よ」ではないでしょうか。当然ながら仏教を取り入れようとする派と、仏教を排除しようとする派に分かれて争いが起こるわけです。が、徐々に排除派は追い詰められていきます。ここで本来の宗教間の争いであるなら相手が滅びるまで戦い続けるわけですが、古来からの日本の伝統でそういう絶滅的な争いにはなりません。

 むしろ、神道側が柔軟にそして積極的に仏教の要素を取り入れていきます。ライバルのスーパーマーケットが新しい商品を売り出せばすぐに同じ商品を売り出すスーパーマーケットのような感じです。日本の宗教の場合、あくまでもお客様が神様なのです。お客様本位で経営がなされます。その最たるものが本地仏です。天照大御神は大日如来、十一面観世音菩薩であり、八幡神・応神天皇は、阿弥陀如来であり、秋葉権現は観音菩薩であり云々です。熊野三山は最も徹底されました。そもそも神社なのに三山です。ふたつの宗教は完璧に融合を果たしました。一方、諏訪大社は、自身の神様に手を付けることはしなかったようです。そのかわりといっては何ですが、自らの手で善光寺という壮大な寺を作り上げ、経営まで行ったのではないでしょうか。善光寺を作ることによって、中央の仏教推進派の顔を立てることができます。これで諏訪大社の地位は安泰です。しかもご近所のお客様(一般の皆様)の需要を満たすこともできます。生を司る神社と、死を司る寺の陰陽システムが完璧な形で完成したのです。

 お近くの神社に行けば、たいていの神社は境内に各地の有名神社を祭った摂社があります。どのような神社であったとしても稲荷神社や八幡神社は必要なのです。カトリックの教会にプロテスタントの小さな教会があるような感じですが、まさにこれがお客様本位という経営です。善光寺は無宗派の寺です。しかし実際の境内には各地の有名な寺の支店が軒を連ねています。これが日本的な宗教の風景なんです。

 さて、最初に書いた鬼門裏鬼門はなんだったのでしょうね。

 スピリチャル好きの方は肩透かしをくらったかもしれません。歴史を辿ってみると、実は六年に一度の大祭が鬼門裏鬼門の方向に固まったのは、それほど古いことではなく、いろいろな変遷をへて現在の時間軸があるようです。どうやら偶然、鬼門裏鬼門の方向になったのです。そういう意味では、その設計が人の手ではなく、自然に成立したこと自体が、世にも不思議な物語といえるかもしれませんね。

2019年7月14日日曜日

三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集

三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集。金烏(太陽)と玉兎(月)で日月の名が示すとおり陰陽の秘伝書。

簠簋は古代中国で用いられた祭祀用の皿。簠(竹+甫+皿)は外が方形で中が円形にくり貫かれている。簋(竹+艮+皿)は外が円形で中が方形にくり貫かれている。つまり簠簋という器は、その姿かたちでこの世の仕組みと陰陽を表現しているのが面白い。

金烏玉兎集は全5巻からなるが、第1巻は牛頭天王の縁起に集約。牛頭天王とは何か。

これまで私は、牛頭天王というのは神仏習合の概念と国家神道の政策から後世にその概念が完成させられた神であり、そもそもはスサノオと同義と解釈していた。でもその考えは少し改めないといけないかもしれない。

牛頭天王といえば、まさに今祭りの真っ最中祇園祭で有名な八坂神社のご祭神。牛頭天王の縁起によると、本地仏は東方浄瑠璃世界の薬師如来。この薬師如来の願いにより、須彌山にあるという豊饒国の武答天王の一人息子として垂迹し、姿をあらわしたのが牛頭天王であるという。

面白いことに、垂迹後に牛頭天王がたどった軌跡は、高天原から天下ったスサノオの神話八岐大蛇伝説に良く似ている。彼は八大龍王のひとりであり、大海原の主である沙掲羅龍王の一人娘である頗梨采女をめとる。ここから蘇民將來・古単將來兄弟と牛頭天王の逸話が始まるわけだが、いずれにせよ牛頭天王もスサノオも海と縁深い。でも一方は神話の龍、もう一方は割と現実的な話である。

私が今知りたいのは、浄瑠璃世界の主薬師如来と牛頭天王、スサノオ、それぞれの特徴と一緒にされたその真意である。いつも不思議だったのだが、スサノオや牛頭天王の片割れは誰なんだろうか。いつだってスサノオ・牛頭天王は孤独だ。簠簋内伝金烏玉兎集の最重要人物であり、常世(海の向こう)の神であるというのであれば、相方は金烏側、すなわち陽であろう。これは一体誰に当たるのだろうか?

スサノオの対になるのは太陽であるアマテラスだ。では何故ツクヨミが必要になったのだろうか?ぶっちゃけいらんのではないか?

そしてさらに言えば、アマテラスは牛頭天王の世界には出てこない。瑠璃光世界(常世)の住人である薬師如来は、そもそも牛頭天王が垂迹した姿だとするとイコールだ。だとしたら一体誰がそれにあたる?大日如来?わからない。釣り合う相手は誰だろう。

仏教ちゃんと勉強しておけばよかった。私の知識ではさっぱり足りない。

(文責S)



2019年5月31日金曜日

私的備忘録「善光寺」

備忘録のため、オチはありませんが御容赦を。

御本尊は一光三尊式阿弥陀如来。絶対秘仏のため未来永劫厨子が開かれる日は来ない。厨子を動かすのは12月28日の煤払いの日のみ。いつでも背負って逃げられるよう背負紐が付いている。ところがメチャクチャ重く、到底背負って動けるようなものではない。これは秘仏が閻浮壇金という特殊な金によって出来ているからである、と伝えられている。阿弥陀如来を中心に、右に観音菩薩、左は勢至菩薩。

阿弥陀如来の右手の印相はオーソドックスな施無畏印。衆生の畏れを取り除くことを意味している。対して左手の印相は非常にイレギュラーで、なぜか刀剣印。このスタイルの印相を組む阿弥陀如来は国内外問わず稀である。

脇侍である観音菩薩・勢至菩薩の印相は梵篋印。胸前で左右の手の平を水平に重ね合わせている。手の中には真珠の薬箱があると善光寺縁起で伝えられている。

wikipediaによると、一光三尊形式といえる(一光四尊にも見える)最古の例は、宋・元嘉28年(451年)の銘がある金銅仏。善光寺式に似た例としては、北魏・大安元年(455年)の銘がある張永石坐像(藤井斉成会有鄰館 蔵)。ただし両脇侍は半跏思惟像。上海博物館の石造漆金仏坐像(南梁大同元年、546年)は刀剣印や梵篋印まで善光寺式と酷似している。


ここで気になる点は2つ。ひとつは「なぜ阿弥陀如来に刀剣印を結ばせたのか」。そしてもうひとつは「なぜ脇侍が“真珠の薬箱”を持っているのか」。

善光寺周辺一帯は水が豊富な場所である。特に湧水が多い。そして蛇を意味するものも多い。特徴的なのは善光寺から南の歩道にある蛇石。蛇は水神であり、龍になる。草薙剣に代表されるように、剣と蛇の親和性は高い。神剣には大抵の場合、蛇や龍の由縁がついている。剣は金、金生水。

また真珠という宝石は、当然のことながら海の産物。陰陽五行でも水気に属する。海の名残のある「薬箱」には一体どのような意味があるのか。ここからは関連があるか分からないが、愛知県の物部に関連する寺院には、なぜか「薬師如来」が祀られていることが多い。薬師如来は瑠璃光世界の信仰、徳川家康が特に手厚く祀っている。推古天皇2年(西暦594年)物部守屋の次男である真福が聖徳太子に依頼して建立したとされる「霊鷲山降劒院真福寺」の御本尊は水体薬師。その正体は湧水井戸であり、寺ながら古神道の要素が非常に強い。ここには神社も併設されているが、名前は「八所神社」ここは「8」である。

物部由来の寺社仏閣にはとにかく剣にまつわるものが多い。石上神宮しかり。善光寺と石上神宮を結ぶ線上にはかの「熱田神宮」が乗る。剣があるのは、石上神宮と熱田神宮。石上神宮が祀るのは物部の祖ウマシマジが神武へ献上した物部の守護剣「布都御魂剣」、そしてヤマタノオロチを退治する際にオロチを殺した「天羽々斬剣」。熱田神宮が祀るのは言わずと知れた三種の神器のひとつ「草薙剣(別名天叢雲剣)」。なんとこのラインの上には、神代三剣全てが乗っていることになる。

そして終点善光寺には直接的な剣の伝承はない。ただし、なぜか阿弥陀如来が刀剣印を結ぶ。このことの意味やいかに。

次は善光寺の鬼門にある城山公園内「健御名方富命彦別神社」の備忘録を記載予定。

(文責S)

2019年3月9日土曜日

吉田悠軌氏との対談

2019年3月10日は吉田悠軌氏との対談イベントに参戦します。
面白くなるに決まってるけど、どっちへ転ぶのかな?

http://www.mochiproject.com/

https://twitter.com/kajyaxx/status/1091273432434499585

後日記:無事おわりました。あっちへ転びましたね笑




2019年3月1日金曜日

椿

 2月も終わり、ついに年度末がやってきますね。新年度から新たなスタートを切られる方も多いのではないでしょうか。この時期は二十四節気で言うところの雨水にあたります。寒さが和らぎ、氷が解けて水になる季節ですが、寒さがゆり戻しのようにやってきて、昨日までの暖かさが嘘のような冬の寒気が舞い戻る時期でもあります。このような季節の行き来がある現象を、古くから「三寒四温」と呼ぶのは、みなさまも良くご存知かと思います。日々ころころと寒暖が入れ替わる時期も、春一番が吹いたあとは徐々に上空から寒気が押しやられ、暖かさが増していきます。春はもうすぐそこまで来ているのです。
 さて、今回はこの季節を代表する、日本原産のあの花を取り上げてみましょう。それは茶道の茶花の女王「椿」です。

 椿は日本原産で、本州、四国、九州、北は青森県にまで分布するなど、日本全国幅広く群生しています。本州の中北部や、比較的標高の高い場所でよくみられるユキツバキは近縁種で、通常の椿とは微妙に群生地が異なり、棲み分けが起きているようです。和名の椿(つばき)の始まりは良く分かっていませんが、厚葉樹(あつばき)や艶葉樹(つやばき)が転じたものであるといわれています。日本での椿の記述は古く、万葉集や日本書紀、出雲風土記にも椿が記述されています。中国でも、隋の2代目皇帝煬帝の詩の中で椿が「海榴」「海石榴」という記述で出てきますが、もともと中国本土には椿はなかったため、これは海の向こうにある日本からやってきた花、という意味の漢字であるようです。ただ、この「海石榴」が本当に私たちが見知っている椿であったのかどうかについては、現在も論争が続いており、国際的には未だ認められていないようです。

 椿は通説として「首から落ちるから縁起が悪く、武士には忌み嫌われた」といった、いわゆる忌み花と聞いたことがある人もいらっしゃるかと思います。しかしこの説は江戸時代以前の文献には一切出てこないばかりか、反対に徳川幕府が江戸に開かれたことによって多くの寺社仏閣、武家屋敷に好んで植栽されていきました。特に2代目将軍である徳川秀忠の椿好きは有名で、慶長18年に刊行された「武家深秘録」の中には「将軍秀忠花癖あり、名花を諸国に徴し、これを後吹上花壇に栽えて愛玩す。此頃より山茶(椿の中国語表記)流行し、数多の珍種をだす」と書かれています。これがいわゆる江戸椿の基礎となったのです。このため、徳川家と縁深いこの愛知県でも江戸時代より椿の育成が重んじられ、さまざまな品種が生み出されることになりました。特に有名なのは名古屋城御殿椿として名高い「尾張五色椿」ですね。成木になると、ひとつの木で白、白地に桃縦紋、紅地白覆輪、桃色など、さまざまな色合いの椿の花が咲くのでこの名がつきました。

 また椿は日本では魔除の木としても重用されてきました。中国の正月の魔除お守りに「剛卯杖」というものがあります。これは漢の時代に始まった風習で、正月の卯の時期に白玉などで装飾し、魔除けの呪文を刻んだ桃の木を腰に刺し魔を払います。剛卯という言葉は、中国の皇帝の姓である「劉」の字が「金」「卯」から成り、ここに剛の字を加えることで「無敵の強さ」を意味するそうです。この風習が日本に伝わったところ、日本には古来桃がなかったため、材質として強い椿が代用されたものと思われます。そして日本ではこの杖を腰に刺すのではなく、宮廷では正月に部屋の四方に飾る、魔除けの杖「卯杖」として独自の形態を取っていくことになるのです。日本書紀には、この卯杖80本が持統天皇に献上された記述が残されているだけでなく、正倉院宝物殿に保管されている卯杖の材質について椿(海石榴)であるという記述が残されています。卯杖の風習は今でも京都の上賀茂神社で残され、正月の卯の神事の際には参拝客に卯杖が配られています。

 この椿、幸田町に名所があります。深溝松平家の菩提寺として名高い「曹洞宗瑞雲山本光寺」です。ここは三河の椿郷として知られ、本堂裏手から展望台に至る山の斜面全てが椿園になっており、実に200種、計5000本もの椿が植えられています。見ごろのピークは3月下旬からのようですが、早咲きのものもありますので、今からちょうど見ごろになるはずです(http://www.kota-kanko.jp/event/ajisai.htm)。


 椿というと、古い映画が好きな私などは、黒澤明監督の「椿三十郎」を思い出します。隣にある敵のアジトから流れる水路に椿を流し、それを合図に一斉に切り込む、という女性ならではのアイディアに笑うとともにひざを打ち、そして敵の手によってたくさんの椿が水路に流れていくさまに、胸がすくような思いがしたことを今でも覚えています。何か大きな仕事など、人生の山場とも言える瞬間くらい、椿が似合うシチュエーションは、もしかしたらないかもしれませんね。

(文責S)

2019年1月25日金曜日

妄想古典深読み斜め読み<紀小鹿郎女(きのおしかのいらつめ)>

 紀郎女、又の名を紀小鹿郎女。紀鹿人の娘で安貴王の妻。夫が藤原家の妻と不倫して略奪した挙句、不敬罪で官職を追われてしまった小鹿さんは、まだうら若き20歳だった。失意のまま恭仁京にひとり暮らしていた彼女に魅了されたのが、有名な歌人大伴家持。出会った頃の家持は20代、その頃は30をゆうに越えてしまっていた小鹿からみたら一回り近くも下だったが、二人はいくつか恋歌を交わしている。彼らの恋歌はやれ粋だ、素敵だ、ともてはやされることが多いが、私はそんな良い話なんかじゃないのではないかな、と思っている。

家持は、確かに小鹿を愛していただろう。しかし家持が愛していたのは小鹿の非凡な歌の才であって、彼女の全てではない。彼女に素晴らしい言葉を編ませるために、わざと家持は彼女にメンションを飛ばしていたんじゃないかと私は思う。

彼女へ優しい言葉を投げ、本気になりそうになったら肩を透かす、そうして生まれた戯れのような歌の数々から垣間見える、家持という御仁のサイコな気質に戦慄すら覚える。

小鹿の「小」は敬称。いわゆるイタリア人が美男美女に送るバンビーノ、バンビーナ「小鹿ちゃん」とは違い、若く美しい鹿の君、という意味。さしずめ鹿御前、といったところか。彼女の父親である鹿人と掛けた、粋な名である。

言葉は言霊と信じられていた古代、特に女性の名が文書として残されることはほとんどなかった。このような中、家持は彼女の歌に注釈で「小鹿」をPRし続ける。それはちょっと偏執的なまでに執拗に。

これを家持の愛ととるか?いやいや、反対に家持は生理的にこの女性を嫌っていたんじゃないのかと思う。だからこそ、戯れとして持ち上げ、嘲笑い、弄び、挙句恭仁京の単身赴任期間を終えて平城京へ戻ってからは一切彼女との連絡を切ったのではないか。

穿った見方かもしれないけど、私はどうにも家持が好きになれない。むしろ怖いとすら思う。

その才ゆえ、ターゲットにされた鹿御前、もし生まれ変わってまた二人が出会った時には、カウンターで肘を顎に入れ、うずくまったらこめかみに蹴りいれるくらいやって良いと私は思う。むしろやってくれ。それくらいしても貴女は許される。

問題のやりとりはこんな感じ。


<やりとりに至るまでのあらすじ>
夫の浮気と逃亡、失職と三重苦状態の小鹿ちゃん。失意のまま恭仁京に来た彼女のもとに、屋敷の草取りやら何やらと、やたら甲斐甲斐しく尽くしてくれる家持が現れる。そのうち家持から歌が送られてくるようになり、しまいには「いろいろ尽くしたのに貴女から何のご褒美もない」という恋文が届くまでになる。そんな家持に小鹿が返した歌がこれ。

小鹿
戯奴がため吾が手もすまに春の野に抜ける茅花ぞ食して肥えませ

ー私がアナタのために採った茅花でも食べて少しは太りなさいませー


対する家持
吾が君に戯奴は恋ふらし給りたる茅花を喫めどいや痩せにやす

ー貴女に恋してしまって食べてもやせるばかりですー


小鹿
昼は咲き夜は恋ひ寝ぬる合歓木の花君のみ見めや戯奴さへに見よ

ー昼は華々しく暮らしているように見えても夜はアナタがいないから、ひとり寂しく寝ているのよー


この句に対する家持の返歌がこれ。マジ鬼畜。


神さぶと否にはあらずはたやはたかくして後に寂しけむかも

ー恋するには貴女が年老いてしまったから拒んでいるのではないですよ、しかしこうしてお断りした以上、寂しい思いをしているかもしれませんねー


百年に老舌出でてよよむとも吾は厭はじ恋は増すとも

ーまあでも、年老いて腰が曲がり、歯の間から舌が覗くようになっても、僕の貴女への恋心は増すばかり、嫌いになどなるわけがありませんー


女性からの恋文に対してお断りする時に、自分ではどうにも努力のしようもない「年齢」を理由に持ち出した挙句、追い打ちにこんなゲスい歌送ってくるとかマジで気でも狂ってんのかと。今までのは何だったんだと正気を疑うレベル。単に彼女に恥かかせて楽しんでいるとしか思えない。だとしたらマジサイコパス以外の何者でもない。私ならこんな扱いされたら立ち直れん。

しかし小鹿ちゃんは気高く、賢い。そして大人だ。

玉の緒を沫緒に搓りて結べらば在りて後にも逢はざらめやも

ー二人の魂の尾を儚い泡のようであっても撚りあわせ、結んでおけば、いつか遠い未来また会う日が来るかもしれませんねー

この句をもって狂気のやり取りは終わる。

最後に彼女が紡いだ、この呪の如く強い言葉に立ち向かえる言葉が、たかが20代の似非インテリ、クソッタレバカガキの家持にはなかったのだろう。鹿は仏の乗り物。神の遣いだ。文章の神様は最後、彼女の肩を抱いたのだと私は思いたい。

(文責S)

梅の話

 2月に入りますね、みなさまいかがお過ごしでしょうか?平成も残すところあとわずかとなってまいりました。時は大寒、一年で最も寒さが厳しい時期にあたります。日本には古くから寒稽古という習慣があり、この時期にあえて武道や水泳などの稽古を行うことで、寒さに耐えられるだけの体力と気力を養おうとしてきました。遠い昔の話ですが、私の通っていた高校にも寒稽古のシステムが残っており、この時期は特に学校へ通うこと自体が苦痛で仕方がなかったことを覚えています。さて、この時期は単に寒く辛いだけかというと、あながちそうでもありません。

 今ちょうどタイムリーな植物は蕗の薹(ふきのとう)ですね。季節を細分化した七十二候では、この時期はちょうど「款冬華(ふきのはなさく)」と記されます。スキーのリフトの上から下を覗くと、雪の下からぽつぽつと顔を出し始めた蕗の薹がみえることがあります。この時期顔を出す花は、春の訪れの象徴とも言えるものです。天ぷらや蕗味噌などの苦味に春を感じられる方も多いかと思います。また、今時期の日本海側はちょうど寒鰤の解禁の時期です。12月、1月とタラバガニ(ズワイガニ)の解禁を迎え、その後すぐにやってくるのが鰤の季節です。成長するにつれて名前が変わる鰤は出世魚として知られ、お正月や結婚式など、慶事には欠かせない食材と言えます。特にこの時期の鰤は寒さのため脂肪が多く、鍋の具材として重宝されます。今時期は特に高いので、なかなか手が出ませんが、お祝いの席がある方にはぜひ召し上がっていただきたいご馳走ですね。

 他にも百合根など、美味しいものが本当に多くて楽しいこの時期に、そろそろ咲き始める花が梅です。梅は2月から4月頃までと、ゆっくり花開き、長く開花を楽しむことができる花です。種類も多く500種以上あると言われており、日本では古くから梅の美しい姿と香りに多くの歌人が魅了され、創作の題材とされてきました。特に菅原道眞公が梅を愛したことは有名で、拾遺和歌集に残された「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主人なしとて 春を忘るな(春な忘れそ、は後世の改変による言い回しです)」を聞いたことがない人はまずいないでしょう。太宰府へ流される前、主人がいなくても春が来たら咲き誇り、その香りをいっぱいにおこしておくれ、と、庭に咲く梅の花に思いを寄せて詠まれた句です。この歌には実はこの後続きがあり、梅は道眞を追って太宰府へ飛び、道眞の邸宅前に根を下ろした、と言われています。これがいわゆる「飛梅」伝説です。

 数ある梅の歌の中で、私が一番好きな歌は万葉集に残された、紀小鹿郎女(きのおしかのいらつめ)が詠んだ句です。

十二月には 沫雪降ると 知らねかも 梅の花咲く 含めらずして(万8-1648)

<訳>
十二月(旧暦ではもう春間近の時期)には、沫雪が降ると梅は知らないのかも、もう梅の花が咲き始めてしまった、どうか蕾のままでいないでそのまま咲いて

春先とは言え、まだまだ寒いこの季節。もう梅の花がほころび始めたけど、また寒くなったら咲かずに蕾で終わってしまうかもしれない、どうかこのまま順調に咲いてくれますように、という、早咲きの梅を気遣う、とても優しく綺麗な歌です。この歌を読んだ紀小鹿郎女とは、天智天皇の第2子である川島皇子の孫である安貴王の妻という身分の高い女性ですが、夫が数々の不祥事の末職を奪われた上、ひとりぼっちにされてしまいます。しかしその非凡な歌の才から大伴家持に愛されるなど、情熱的な人生を送られたようです。この歌だけでなく、同じく万葉集に残された、夫へ向けた数々の怨恨歌、そして10歳近く下の大伴家持と交わした恋歌からも、彼女の純粋で優しく気高い人柄を垣間見ることができます。

 今年度も残すところあと少しです。春を迎えるにあたり、徐々に忙しくなってきますが、みなさまご無理をなさらぬよう、ご自愛ください。まだまだ季節は寒いままです。お風邪を召しませんよう、体調管理に十分気をつけるだけでなく、心の健康管理にもぜひ気を配ってあげてください。梅の季節は長いです。焦らずともちゃんとみなさんを待っていてくれると思いますよ。

(文責S)