2019年1月25日金曜日

妄想古典深読み斜め読み<紀小鹿郎女(きのおしかのいらつめ)>

 紀郎女、又の名を紀小鹿郎女。紀鹿人の娘で安貴王の妻。夫が藤原家の妻と不倫して略奪した挙句、不敬罪で官職を追われてしまった小鹿さんは、まだうら若き20歳だった。失意のまま恭仁京にひとり暮らしていた彼女に魅了されたのが、有名な歌人大伴家持。出会った頃の家持は20代、その頃は30をゆうに越えてしまっていた小鹿からみたら一回り近くも下だったが、二人はいくつか恋歌を交わしている。彼らの恋歌はやれ粋だ、素敵だ、ともてはやされることが多いが、私はそんな良い話なんかじゃないのではないかな、と思っている。

家持は、確かに小鹿を愛していただろう。しかし家持が愛していたのは小鹿の非凡な歌の才であって、彼女の全てではない。彼女に素晴らしい言葉を編ませるために、わざと家持は彼女にメンションを飛ばしていたんじゃないかと私は思う。

彼女へ優しい言葉を投げ、本気になりそうになったら肩を透かす、そうして生まれた戯れのような歌の数々から垣間見える、家持という御仁のサイコな気質に戦慄すら覚える。

小鹿の「小」は敬称。いわゆるイタリア人が美男美女に送るバンビーノ、バンビーナ「小鹿ちゃん」とは違い、若く美しい鹿の君、という意味。さしずめ鹿御前、といったところか。彼女の父親である鹿人と掛けた、粋な名である。

言葉は言霊と信じられていた古代、特に女性の名が文書として残されることはほとんどなかった。このような中、家持は彼女の歌に注釈で「小鹿」をPRし続ける。それはちょっと偏執的なまでに執拗に。

これを家持の愛ととるか?いやいや、反対に家持は生理的にこの女性を嫌っていたんじゃないのかと思う。だからこそ、戯れとして持ち上げ、嘲笑い、弄び、挙句恭仁京の単身赴任期間を終えて平城京へ戻ってからは一切彼女との連絡を切ったのではないか。

穿った見方かもしれないけど、私はどうにも家持が好きになれない。むしろ怖いとすら思う。

その才ゆえ、ターゲットにされた鹿御前、もし生まれ変わってまた二人が出会った時には、カウンターで肘を顎に入れ、うずくまったらこめかみに蹴りいれるくらいやって良いと私は思う。むしろやってくれ。それくらいしても貴女は許される。

問題のやりとりはこんな感じ。


<やりとりに至るまでのあらすじ>
夫の浮気と逃亡、失職と三重苦状態の小鹿ちゃん。失意のまま恭仁京に来た彼女のもとに、屋敷の草取りやら何やらと、やたら甲斐甲斐しく尽くしてくれる家持が現れる。そのうち家持から歌が送られてくるようになり、しまいには「いろいろ尽くしたのに貴女から何のご褒美もない」という恋文が届くまでになる。そんな家持に小鹿が返した歌がこれ。

小鹿
戯奴がため吾が手もすまに春の野に抜ける茅花ぞ食して肥えませ

ー私がアナタのために採った茅花でも食べて少しは太りなさいませー


対する家持
吾が君に戯奴は恋ふらし給りたる茅花を喫めどいや痩せにやす

ー貴女に恋してしまって食べてもやせるばかりですー


小鹿
昼は咲き夜は恋ひ寝ぬる合歓木の花君のみ見めや戯奴さへに見よ

ー昼は華々しく暮らしているように見えても夜はアナタがいないから、ひとり寂しく寝ているのよー


この句に対する家持の返歌がこれ。マジ鬼畜。


神さぶと否にはあらずはたやはたかくして後に寂しけむかも

ー恋するには貴女が年老いてしまったから拒んでいるのではないですよ、しかしこうしてお断りした以上、寂しい思いをしているかもしれませんねー


百年に老舌出でてよよむとも吾は厭はじ恋は増すとも

ーまあでも、年老いて腰が曲がり、歯の間から舌が覗くようになっても、僕の貴女への恋心は増すばかり、嫌いになどなるわけがありませんー


女性からの恋文に対してお断りする時に、自分ではどうにも努力のしようもない「年齢」を理由に持ち出した挙句、追い打ちにこんなゲスい歌送ってくるとかマジで気でも狂ってんのかと。今までのは何だったんだと正気を疑うレベル。単に彼女に恥かかせて楽しんでいるとしか思えない。だとしたらマジサイコパス以外の何者でもない。私ならこんな扱いされたら立ち直れん。

しかし小鹿ちゃんは気高く、賢い。そして大人だ。

玉の緒を沫緒に搓りて結べらば在りて後にも逢はざらめやも

ー二人の魂の尾を儚い泡のようであっても撚りあわせ、結んでおけば、いつか遠い未来また会う日が来るかもしれませんねー

この句をもって狂気のやり取りは終わる。

最後に彼女が紡いだ、この呪の如く強い言葉に立ち向かえる言葉が、たかが20代の似非インテリ、クソッタレバカガキの家持にはなかったのだろう。鹿は仏の乗り物。神の遣いだ。文章の神様は最後、彼女の肩を抱いたのだと私は思いたい。

(文責S)

梅の話

 2月に入りますね、みなさまいかがお過ごしでしょうか?平成も残すところあとわずかとなってまいりました。時は大寒、一年で最も寒さが厳しい時期にあたります。日本には古くから寒稽古という習慣があり、この時期にあえて武道や水泳などの稽古を行うことで、寒さに耐えられるだけの体力と気力を養おうとしてきました。遠い昔の話ですが、私の通っていた高校にも寒稽古のシステムが残っており、この時期は特に学校へ通うこと自体が苦痛で仕方がなかったことを覚えています。さて、この時期は単に寒く辛いだけかというと、あながちそうでもありません。

 今ちょうどタイムリーな植物は蕗の薹(ふきのとう)ですね。季節を細分化した七十二候では、この時期はちょうど「款冬華(ふきのはなさく)」と記されます。スキーのリフトの上から下を覗くと、雪の下からぽつぽつと顔を出し始めた蕗の薹がみえることがあります。この時期顔を出す花は、春の訪れの象徴とも言えるものです。天ぷらや蕗味噌などの苦味に春を感じられる方も多いかと思います。また、今時期の日本海側はちょうど寒鰤の解禁の時期です。12月、1月とタラバガニ(ズワイガニ)の解禁を迎え、その後すぐにやってくるのが鰤の季節です。成長するにつれて名前が変わる鰤は出世魚として知られ、お正月や結婚式など、慶事には欠かせない食材と言えます。特にこの時期の鰤は寒さのため脂肪が多く、鍋の具材として重宝されます。今時期は特に高いので、なかなか手が出ませんが、お祝いの席がある方にはぜひ召し上がっていただきたいご馳走ですね。

 他にも百合根など、美味しいものが本当に多くて楽しいこの時期に、そろそろ咲き始める花が梅です。梅は2月から4月頃までと、ゆっくり花開き、長く開花を楽しむことができる花です。種類も多く500種以上あると言われており、日本では古くから梅の美しい姿と香りに多くの歌人が魅了され、創作の題材とされてきました。特に菅原道眞公が梅を愛したことは有名で、拾遺和歌集に残された「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主人なしとて 春を忘るな(春な忘れそ、は後世の改変による言い回しです)」を聞いたことがない人はまずいないでしょう。太宰府へ流される前、主人がいなくても春が来たら咲き誇り、その香りをいっぱいにおこしておくれ、と、庭に咲く梅の花に思いを寄せて詠まれた句です。この歌には実はこの後続きがあり、梅は道眞を追って太宰府へ飛び、道眞の邸宅前に根を下ろした、と言われています。これがいわゆる「飛梅」伝説です。

 数ある梅の歌の中で、私が一番好きな歌は万葉集に残された、紀小鹿郎女(きのおしかのいらつめ)が詠んだ句です。

十二月には 沫雪降ると 知らねかも 梅の花咲く 含めらずして(万8-1648)

<訳>
十二月(旧暦ではもう春間近の時期)には、沫雪が降ると梅は知らないのかも、もう梅の花が咲き始めてしまった、どうか蕾のままでいないでそのまま咲いて

春先とは言え、まだまだ寒いこの季節。もう梅の花がほころび始めたけど、また寒くなったら咲かずに蕾で終わってしまうかもしれない、どうかこのまま順調に咲いてくれますように、という、早咲きの梅を気遣う、とても優しく綺麗な歌です。この歌を読んだ紀小鹿郎女とは、天智天皇の第2子である川島皇子の孫である安貴王の妻という身分の高い女性ですが、夫が数々の不祥事の末職を奪われた上、ひとりぼっちにされてしまいます。しかしその非凡な歌の才から大伴家持に愛されるなど、情熱的な人生を送られたようです。この歌だけでなく、同じく万葉集に残された、夫へ向けた数々の怨恨歌、そして10歳近く下の大伴家持と交わした恋歌からも、彼女の純粋で優しく気高い人柄を垣間見ることができます。

 今年度も残すところあと少しです。春を迎えるにあたり、徐々に忙しくなってきますが、みなさまご無理をなさらぬよう、ご自愛ください。まだまだ季節は寒いままです。お風邪を召しませんよう、体調管理に十分気をつけるだけでなく、心の健康管理にもぜひ気を配ってあげてください。梅の季節は長いです。焦らずともちゃんとみなさんを待っていてくれると思いますよ。

(文責S)

2018年12月28日金曜日

新年に舞う能「翁」の話

 今回は、私の大好きな能についてご紹介します。

 能の舞台演目は多々あれど、中でも最も異質であり、正月にしかほぼ舞われることのない特別な演目が「翁(おきな)」です。翁は古くから「能にして能にあらず」と評された演目で、他の演目とは明らかに別格、つまり神聖なものとして扱われてきました。いつ・誰が作った演目であるのか、その由来は謎に包まれていますが、天下泰平、国土安寧を祈願する演目であると言われていることから、楽しむためのものというよりも、むしろ神事に近いものである思われます。この翁を舞う機会はとても少ないですが、そのうちのひとつが正月です。

 翁は舞台で舞うその瞬間だけが全てではありません。翁を務める演者は上演前の約21日前より精進潔斎に入り、通常生活に使う火とは違う特別に清められた火を使って煮炊きされた食事を摂る生活を送ります。そして舞台当日は舞台の屋根の部分にしめ縄を張り巡らしたり、お神酒や米、粗塩、そして祭壇を備え、舞台全体を神域に仕立てます。舞は、翁、千歳、三番叟という三人の演者によって舞われますが、主役は翁と三番叟であり、千歳の役所は翁と三番叟の露払い(導く者)です。この舞が他の能の演目と全く違うのは、主役の二人が舞台の上で面を着けたり外したりする所作があるところです。通常能の舞台では演者は必ず舞台裏で面を着けてから登場しますが、翁役は面を着けずに登場します。舞台の上で翁役はひとつ舞を舞うと、舞台上で翁面(白式尉)を着け、さらにもうひと舞披露します。そして千歳に導かれ退出した翁と入れ替わり、同じく面を着けていない三番叟役が現れ、翁同様ひと舞舞った後、舞台上で黒式尉の面を着け、さらにもうひと舞舞うのです。翁と三番叟の役回りは、あたかも二人が陰陽を意味しているかのようにもみえますね。ちなみに一連の舞の間は観客すらも神事の一部とされ、客席の出入りは一切許されません。厳かな舞台空間はさながら異世界そのものです。難解な舞台ではありますが、この圧倒的な異世界感は、実際に体験してみるだけの価値があると思います。

 日本の武道、舞台の多くには、神事の要素が含まれているものが多くあります。そしてそれらは古くからその真意がわかる、わからないに関わらず、達人達の手によって代々踏襲され、保存されてきました。その真意とは、実際に演じた人の数だけ、さらには居合わせた人の数だけ存在するのかもしれません。

 みなさまもぜひ一度、能という日本の伝統芸能が連れて行ってくれる異世界を体験してみてください。異世界とは言っても、決して怖いものではありませんので大丈夫。正月だからこそ垣間見ることができる神様の世界を、隙間からそっと見せていただくのです。それはきっと素晴らしく清冽な世界だと思いますよ。

(文責S)


2018年12月3日月曜日

岡さんぽ

12月2日(日)。

岡崎の歴史ミステリーツアーを実施しました。
http://www.okazakicci.or.jp/okasanpo/
http://www.okazakicci.or.jp/okasanpo/20181202/course.html
("六"にまつわる古代史ミステリーさんぽ 3.5キロ)

行程は、
籠田公園出発ー二七市ー本町清明神社ー菅生神社ー唐沢清明神社ー高岩跡ー吹矢橋ー吹矢橋公園ー六所神社解散
の約2時間30分でした。

晴天のなか24名の方にお集まりいただき、
本に因んだ場所を練り歩きました。
熱心な質問も頂き、また歴史にとてもお詳しい方、
岡崎に詳しい方もおられ、とても楽しい散歩となりました。



2018年10月30日火曜日

再始動(むりむり)

ひとつの本を仕上げたという達成感もあり、
著者ふたりの本業が『あほみたいに』忙しいという事情もあり、
なかなか歴史に向きあえませんでしたが再始動します。

僕たちは歴史研究を生涯のテーマとしております。

次のスタートポイントは「熱田神宮」。
好きがゆえ前回の本で扱えなかったのです。

「あいち」「あつた」「あつわ」「ちた」って
なんだか似ていませんか?


2018年9月9日日曜日

フィクションとしては星5の本

「ロマンで古代は読み解けない」を
出版するにあたって楽しみにしていたことがあります。

それは提案した仮説への議論の深まりです。

特に伊勢神宮の内宮外宮2社制についての解釈は
いままで何方も提案されなかったものです。
発見したときの「あっ」という腰の浮くくらいの感触を
共有していただきたいという思いもありますし、
僕たちとしては最も世に問いたい仮説です。

もちろん議論というものは読者の皆さんに
乗ってきていただかないとどうにもなりません。
もしなにかご意見ありましたら遠慮なく作者に浴びせかけてみてください。
それは手厳しい批判であってもいいのです。
もし本を買っていただいた上にご批判まで頂けるのでしたら、
普段科学論文を無料で配布している身としては
考えられないくらいのありがたい状況です。
見かけの割には高価格の本ですし。

さて、
このたび某レビューに
「ノンフィクションとして星2つ」
との趣旨のご批判をいただきました。

本の宣伝文句に「科学」というキーワードを使っていますし、
そもそもタイトルが「ロマンじゃない!」と謳っているので、
読者の方が本書をノンフィクションとして扱うのは当然であり、
これは至極当然のご批判です。

大して文献の引用もない本書は、
確かにノンフィクションとしては
不出来であるに違いありません。

しかし果たして本書はノンフィクションでしょうか。
どこかプロレスのように現実と非現実の境界を
行き来しているような雰囲気はないでしょうか。
あるいは思想書のような哲学書のような。
面白い仮説で遊ぶような感覚。

某レビューの中でも触れられていますが、
「著者たちも最後には認めてしまっている」のです。
そう。この問題については僕たちも自覚をしております。

著者はふたりは科学論文をガンガン書いている現役の科学者です。
科学論文は怖い査読者と恐ろしいエディターの批判をかいくぐって世に出ます。
著者ふたりの身体には「科学」が痛いほど染み付いています。
そんなふたりが「あえて」このようなスタイルの本を書いたのです。
意図を想像していただくのもご一興かと思います。

実は某レビューには続きがあります。
「ノンフィクションとして星2つだけど、フィクションとしてなら星5」
です。

僕たちにとって「フィクションとしては星5」は
最大限の誉め言葉です(涙涙涙涙涙)。

2018年7月9日月曜日

アマゾンなど売り切れ店あり

好評発売中の「ロマンで古代史は読み解けない」ですが、アマゾンなどで売り切れ状態が続いております。書評などによって急激に売れた影響かとおもいます。まことにありがたいことですが、これから購入予定のかたには、まことにすみません。
アマゾンでは定価より高い中古品などが出回っておりますが、税込み価格 ¥1,836(本体¥1,700)ですので、くれぐれもお間違えのないよう!

紀伊国屋などには在庫があるようですので、こちらのページをご参照ください。どうぞ、よろしくお願いいたします。

(後日記述)2018年9月初頭現在、解消されております。

2018年6月6日水曜日

あじさいの話

 次第に雨の降る日が増え、季節が梅雨めいてきましたね。6月は休日もなく、もうすでに憂鬱な気持ちになっていらっしゃる方もいるかもしれません。私たちの生活の中では、梅雨の時期はあまり良い事がないように思われるかもしれませんが、自然界にとっては正に恵の時期です。こぞって命が生まれ、草木がより青く色づきだすこの時期は、二十四節気では小満(しょうまん:今年は5月21日から)から芒種(ぼうしゅ:今年は6月6日から)、そして次のかわらばんが出る頃はもう夏至(今年は6月21日)に入ります。芒種から次の夏至までの間をさらに3分割した七十二候では、初候は蟷螂生(とうろうしょうず、カマキリが生まれる時期の意)、次候は腐草為蛍(ふそうほたるとなる、腐った草が蒸れて蛍になる時期の意)と呼ばれ、雨と湿度がさまざまな命を生み出す様子が美しく表現されています。こうして季節の言葉を紐解いてみると、一見あまり良いことがなさそうな梅雨も、然程捨てたものではないように見えて来るから不思議です。

 さて、梅雨を代表する花といえばあじさいでしょう。あじさいの語源には諸説ありますが、「藍色が集まったもの」という意味の「集真藍(あづさい)」というのが最も有力な説だそうです。音として存在していた日本語を文字として表記するため、古くは漢字の音を借用した万葉仮名が用いられていました。万葉仮名とはいわゆる当て字のことで、日本最古の和歌集である万葉集は全てがこの万葉仮名で表記されています。万葉集の中であじさいは「味狭藍」や「安治佐為」、そして平安期の辞書である和名類聚抄では「阿豆佐為」と漢字が当てられているところをみると、花名は古代よりあじさいと固定していたことがわかります。現在あじさいの表記として一般的なものになっている「紫陽花」という漢字は、私の大好きな詩人白居易によるものなのですが、元々この字は、あじさいに似た別の品種であるライラックに付したものです。つまり白居易の言う紫陽花は、日本で言われるところのあじさいとは異なる花なのですね。



 あじさいは土壌のpHによって簡単に色が変わるため、別名「七変化」とも言われます。加えて、花の色は日が経つにつれて薄い黄緑色から赤や青、そして赤みの強い色へと徐々に変化していくのですが、これは土壌の環境とは関係なく花の老化現象として発現します。このようにコロコロと色を変えていく様が昔の人には良く思われなかったのか、万葉集の中に記されたあじさいの歌はわずか2首しかありません。そのうちひとつは大伴家持の作ですが、これは後に正妻として迎えることになる家持の従妹、坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)に向けて書かれたもので、解釈が非常に難しい歌として有名です。

 言問はぬ 木すら味狭藍諸弟らが 練の村戸に あざむかえけり(巻4,773)
(物言わぬ草木ですら、あじさいのように移り気なものがあります。周りの人々の巧みな言葉に私は欺かれたのです)

 この歌に出て来る諸弟や練、村戸などの言葉をどう解釈するかが未だに定まっていないため、その解釈には諸説ありますが、この歌の前後にある大嬢に向けた別の歌を見ると、この時期二人の間があまりうまくいっていなかったのだな、ということがわかります。家持と大嬢は幼い頃より恋仲でしたが、数年の別離の期間を経て正妻として迎えることになった経緯があります。おそらく家持は、あじさいのように移り気な大嬢に「欺かれた」と考え、彼女を歌で責めたのでしょう。

 このような歌の題材にもなったあじさいなので、花言葉も「浮気」「移り気」「無常」とそれはそれは散々なものです。七変化するその姿からこのような意味が付されたのはわかりますが、さすがにこれではあじさいが可哀想ですね。そこで最近は花屋の巧みな戦略なのか、「家族団欒」や「仲良し」といった意味を盛り込み、さらに色ごとに「青:辛抱強い愛」「桃:元気な女性」「白:寛容」を表すとし、母の日に好んで選ばれるそうです。
 そんなあじさいですが、実はお寺に多く植えられている花としても有名です。特にあじさいが多く植えられていることで有名な寺は「あじさい寺」と呼ばれ、全国に点在しています。医療の発達していなかった時代、梅雨時は多くの病が流行りました。この時期に見頃を迎えるあじさいは、別名死者に手向ける花と呼ばれ、墓前に添えられる花として寺に植えられたそうです。みなさまぜひこの機会に訪れてみてはいかがでしょうか。

 梅雨時には湿気のためカビも発生し、呼吸器を悪くする方もいらっしゃいます。この機会に家の掃除をして心身ともにすっきりさせましょう。そして心の健康のために良かったらあじさいを家に迎え、その七変化の様を観察してみてください。その色の移りゆく様は、あじさいの悲しい経緯や花言葉を払拭するほどに美しく、きっとみなさまの心に柔らかな彩りを残してくれると思いますよ。

(文責S)

2018年4月27日金曜日

【正誤表】ロマンで古代史は読み解けない

出版された本の中に、いくつか誤字脱字、訂正箇所、そして追加説明が必要な箇所があります。本自体の訂正は重版がかかるタイミングでしかできないのですが、現在わかっている箇所について、先にここに書き記しておきたいと思います。はあ、情けない。。

11ページ:7行目の「洪水」を削除です。どんだけ洪水起こすのかって話ですよ。
70ページ:図8の⑦は上弦ではなく、下弦の月です。下にあるのにーっ。
117ページ:図11の説明で「青丸と青破線」は間違いで「丸と斜線」が正しいです。
125ページ:伊勢神宮の式年遷宮は20年に一度です。40年になっております。


2018年4月10日火曜日

本が発売されました!

ついに『ロマンで古代史は読み解けない』が発売されました。自然科学の研究者なのに、脳の研究者なのに、心理の研究者なのに、歴史本です。

本書の骨格は自然科学の研究によく似ています。まず対象をしっかりと観察します。本書の場合は地図です。そして何らかの法則を見出します。本書の場合は伊勢神宮に見出された陰陽の軸構造です。次に、見出された法則が別の場所でも成り立つかを検証します。本書の場合は諏訪、熊野、賀茂、菅生だったりします。すべての場所で同じ法則が成立していたら、法則は確からしいとなります。まるでニュートンの法則みたいですね。

自分たちが信じられる骨格ができたら、あとは古代の人々への思いを込めて一気に書き切りました。

骨格とした「陰陽」は、なんだかスピリチュアル的なイメージがありますが、本書での扱いは「対立するもの同士を融和して、新しく強固なものを作りあげる」という比較的シンプルな考え方です。恐らくは「陰陽五行」という形式で中国から輸入されるはるか以前から、日本の風土で培われた概念ではないかと想像しています。天地、東西、上下、内外、男女、火水、日月、光闇などは、二本でひとつである、世界は二本でひとつ。特に対立する民族、対立する宗教を融和するのに絶大な威力を発揮したことでしょう。ややもすれば対立が深まる今この世界に、最も必要とされている考え方ではないでしょうか。

神保町のレジ横(東京)
異彩を放つカバーは、書家加藤一陽さん渾身の書き下ろしを軸にして、デザイナーさんに本のコンセプトを踏まえて綺麗にまとめて頂きました。カバーには本に関わったすべての人の思いが込められています。

正文館書店(岡崎市本店)

まずは立ち読みで。なにをおいても「内宮と外宮」はぜひぜひ読んで頂きたいです。著者がいうのもなんですが、鬼気迫る自信作です。

TSUTAYA岡崎インター店(岡崎市)

お近くの書店になければ、アマゾン紀伊國屋コンビニ系などの取り扱い店でも!

大人気の竹島水族館本に挟まれたロマン古代@正文館シビコ店


2018年2月20日火曜日

もうすぐ本が発売されます

以前もご紹介した「岡崎の六並び」。
https://okazaki6.blogspot.jp/
愛知県岡崎市を中心に六の地名が一直線に並んでいるという地名&歴史ミステリー。

ついに歴史短編エッセイ集が完成しました!
本のタイトルは、『ロマンで古代史は読み解けない』。
科学者ふたりが粘り強く推理と妄想を重ねました。

イラストのプロが書き起こした図版多数掲載。4月半ばの出版を目指して鋭意校正中。




壮大な物語は、岡崎だけではなく全国を駆け巡ります。伊勢、出雲、熊野、諏訪、京都、そして岡崎。短編集のラストを飾るのは、やはり岡崎の六並びです。

果たして謎は解けたのか?お楽しみに!


Amazonで予約ができます。


2018年1月31日水曜日

滝山寺鬼まつり

久しぶりに節気の話をしましょう。もうすぐすぐに節分がやってきます。節分は、年に1度豆まきや恵方巻きを食べるなど、さまざまな節分のイベントを行うタイミングだけを言うのではなく、立春(2月4日)、立夏、立秋、立冬の前日が全て節分にあたります。つまり各々の季節の始まりの日が節分なのですね。

 さて節分といえば豆まきです。これは、季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられていたため、鬼を追い払うために行われるようになったと一般的には伝えられています。この悪魔祓い的行事はもともと宮中行事が発祥です。平安時代に行われていた「追儺(ついな)」が元になっています。追儺は、方相氏(ほうそうし)という鬼役の役人と、方相氏の脇侍となる役人総勢20名で、大内裏の中を「鬼やろう(鬼やらい)」と掛け声を掛けながら練り歩く行事でした。方相氏の付けていた面は、現在の赤鬼青鬼とはだいぶ異なり、金色の目が4つ付いた、呪術の面のような独特の様相をしています。面白いことにこの方相氏は、現在のように鬼そのものとして現れるのではなく、逆に鬼を追い払う特別な神としての役割を担っていたそうです。方相氏が大内裏をめぐる際は、公卿の一人が方相氏を援護するため弓を清涼殿から引き、他の内裏にいる殿上人たちは方相氏のためにでんでん太鼓を振って音で彼を援護しました。これが厄払いだったのです。ある意味英雄であった方相氏が、忌み嫌われる鬼側に身をやつしたのは、9世紀に入ってからのようで、その理由はよくわかっていません。

 全国的にさまざまな厄払いが行われる節分ですが、岡崎市の滝山寺では一風変わった節分まつりが行われています。それが「滝山寺鬼まつり」です。滝山寺の創建は、天武天皇の時代(朱鳥元年,686年)にまで遡り、鬼や式神を操ることで知られる、かの超有名な修験者役小角(えんのおづぬ)が創建した「吉祥寺(きっしょうじ)」という寺が起源であると滝山寺縁起に伝えられています。1222年、清和源氏のひとり足利義氏によって建てられた本堂は国の指定重要文化財ですが、滝山寺鬼まつりではこの本堂に巨大な松明を持ち込み、境内回廊を練り歩きます。この際、爺面、婆面、孫面という、3つの鬼の面を被った鬼役も回廊を一緒に練り歩きますが、彼らはかつての方相氏と同じく、鬼を払う神としての役割を担っています。つまり滝山寺の鬼たちは、極めて古い形の鬼の役回りを担っていると考えられるのです。鬼役の人物は祭の前1週間、潔斎沐浴して別室で寝起きをし、四つ足動物の肉を口にすることができません。また彼らの身の回りの世話や炊事は、全て男性によってまかなわれます。これは祇園祭の鉾に乗る稚児役と同様のものです。岡崎の鬼まつりは、ダイナミックな松明にだけ着目されてしまいがちですが、実は大事なのはそちらではなく、3人の神となった鬼役こそが主役なのです。

(文責S)


 鬼まつりの陰に隠れてもうひとつ、この3人の鬼には別のコワイ逸話が残っています。実はもともと面は5つあったことが伝えられているのです。残りの2面は父面と母面であり、精進潔斎を行わずにこの面をつけて祭を行った僧の顔に面が張り付いて取れず、遂には死に至ったそうです。彼らは面とともに境内内にある薬師堂の前に葬られました。この場所は「鬼塚」として現在も残されていますが、ここでは鬼まつりの際、炒った五穀を撒き、「春秋の芽の生うる時出で来たれ」と呪文が唱えられます。炒った五穀は撒いても芽は出ません。つまりこれは鬼が「一生出てこないようにする」ための呪いとも考えられます。そして鬼を封じた五穀は、薬として持ち帰る風習があるそうです。

 もし炒っていない五穀を撒いたらどうでしょう。もしかしたら本当に父面、母面が復活してしまうかもしれませんね。力ある神(鬼)を祀ることで私たちの厄を払ってくれもしますが、いい加減にやると本当に悪鬼となってしまうという良い例だと思います。ちなみに鬼に投げつけている豆ですが、あれはもともとは鬼に捧げる供物であり、そっと鬼へお供えし、機嫌よく帰ってもらうことが目的であったそうです。考えてみたら、でんでん太鼓の音が豆を撒く音に似ているから、そこから豆まきに変わったのかもしれません。ちなみに今年の鬼まつりは2月17日ですよ、かなり混みますがこの機会に一度行ってみてください。

 今年は鬼に豆を力一杯投げつけるのではなく、試しに綺麗な器にお供えし、そっと縁側にお供えしてみてはいかがでしょうか。いくら強い鬼とはいえ、痛い思いをするよりもゆっくり座って美味しい豆が食べたいかもしれません。ちなみに私はちょっとこの方法でいってみたいと思っています。

2019年の鬼祭りクライマックス


2017年12月1日金曜日

菅生神社のお祭り「菅生祭」の不思議

 私たちの住む岡崎市では、毎年8月の第一土曜日に花火大会があります。今年の花火大会は8月5日ですね。大会会場になる乙川(菅生川)河川敷では、ちょうどこの時期に桟敷席などが整備されるなど、かなり盛り上がって来ています。この花火大会は市をあげて行う、かなり大掛かりなイベントです。とても盛大に開催されるため、近隣の県からもたくさんの観光客が訪れるとても賑やかなイベントです。

 しかしこの花火大会、実はタダの観光用の花火大会ではないようです。今回はとても不思議なこの花火大会の由来と、その元になった菅生神社のお祭り「菅生祭」について考えてみたいと思います。

 岡崎市が開催している花火大会は、もともとは東岡崎駅から北へ向かい、殿橋を渡った左手の乙川沿いにある菅生神社のお祭りとして開催されていました。この菅生神社のお祭りは菅生祭と言い、江戸時代文政の頃(西暦1818〜1829年にかけての時期で、第11代将軍徳川家斉の時代にあたります)から続けられています。いわゆる厄除けのお祭りで、京都の祇園祭のように「宵宮祭」、「例大祭」を経て、8月第一土曜日の花火大会までを含めて菅生祭と言うそうです。この花火は、江戸の頃は菅生川(乙川)に提灯を付けた鉾船を浮かべ、手筒花火や金魚花火(水の中を走る花火)が奉納されていたそうです。現在の花火大会でも鉾船から花火が打ち上げられます。しかし本当に面白いのは、実は打ち上げ花火に先立って開催される「船魂祭」と「鉾船神事」です。

 花火大会の開催当日は、午後14時より船魂祭が始まります。天王丸、菅生丸と名付けられた2艘の鉾船に宮司らが乗船し、安全祈願の祝詞を奏上します。その後、船の上から菰(こも:イネ科の多年草、ムシロを編むのに使います)で作った人形と、神葭(みよし:イネ科の多年草であるヨシを束ねたもの)を流し、疫神を川に流します。これは鉾船神事と呼ばれています。この菅生祭と同様の神事はこの三河、尾張にはとても多いようで、有名なところでは尾張津島天王祭が菅生祭に近いかもしれません。


天王丸と菅生丸。右に岡崎城天守閣が見える

 この鉾船、京都の祇園祭の鉾船と同じ意味を持っています。八坂神社の御祭神は牛頭天王(スサノオノミコトと言われています)ですが、尾張津島天王祭も牛頭「天王」の祭りですし、何より菅生神社にも牛頭天王がスサノオノミコトとして合祀されています。そもそも神葭流しは、牛頭天王信仰のある場所で行われますし、なにより祇園祭の鉾で配られるちまきは、神葭で包まれていますね。つまりどういうわけか、この菅生神社は牛頭天王を通じて祇園祭とも深い関係があるようなのです。

 なかなか面白い由縁を持つ菅生神社のお祭りですので、花火の前の神事にも、ぜひ注目してくださいね。

(文責S)

2017年4月20日木曜日

龍の道とアラハバキ、塞の神 ー六所神社考ー

 名鉄東岡崎駅南口から徒歩5分の場所に、六所神社はあります。ここは徳川家康公の産土神とされ、数年前にはNHK朝の連続テレビドラマの撮影でも使われるなど、岡崎市では知らない人のいないくらい有名な神社です。しかしご祭神はあまり他で見ることのない、ちょっと変わった神様たちが祀られています。

六所神社 ご祭神
塩土老翁神,猿田彦神,衝立船戸神,興玉神,事勝国勝長狭命

 塩土老翁神は、武甕槌(タケミカヅチ)と経津主神(フツヌシノカミ)が諸国平定する際に道案内をした神。道しるべの神であり、製塩の神です。つまり海の神ですね。総本宮は宮城県の鹽竈神社であり、六所境内には鹽竈神社から頂いた桜が植樹されています。
 
 猿田彦神は天照大神に派遣された瓊瓊杵尊の道案内をした神。八咫鏡の元伊勢探しの旅では、猿田彦の子孫である大田命が一行を先導して案内し、五十鈴川の一帯を献上したことが「倭姫命世記」に記載されています。

 衝立船戸神は別名岐の神(クナトノカミ)と言い、外からの悪霊の侵入を防ぐ神。日本書紀や古語拾遺選では猿田彦と同神と言われています。いわゆる塞の神。日本書紀では黄泉比良坂で伊奘冉から逃げてきた伊奘諾が「来るな」と言って投げつけた杖が来名戸祖神(クナトノサエノカミ)となったと書かれているところ、古事記では「衝立船戸神」と書かれています。

 興玉神(オキタマノカミ)はあまり知られていませんが、とても由緒ある神です。伊勢神宮内宮正宮の守護神として正宮御垣内に鎮座されています。猿田彦の子孫で五十鈴川一帯を献上した大田命の別名とも言われます。ちなみに内宮正宮には他に宮比神(ミヤビノカミ:猿田彦の妻である天鈿女の別名という説もある)と屋乃波比伎神(ヤノハヒキノカミ、今回の主役なので後述)の合わせて3神が祀られています。

 事勝国勝長狭命は高千穂に天下った瓊瓊杵尊に笠狭崎で国を譲った神とされています。塩土老翁の別名という説もあります。

 つまり六所神社の本質とは、海運に関わる道を示す神、悪霊が入リ込まないようにする塞の神、いわゆる守護の神としての性質を帯びていることがわかります。海と海運、製塩の塩土老翁、杖から生まれた岐神、五十鈴川の大田命、国津神の事勝国勝長狭命。ご祭神の性質をあげていくと、そこにはある一つの姿が結びつきます。それは「蛇神」の姿です。

 風水や陰陽道に限らず、水と蛇、蛟、龍は非常に親和性が高いものとして古くから認知されてきました。それは荒々しく流れる急流の川や海の様々な生物の姿が龍の姿に比されたからでしょう。事実航海の無事や大漁を祈る神事の殆どは、全国レベルでどこを見ても龍神を祀ったものが多いですし、アニメ千と千尋でも川を神格化した姿が白龍として登場するなど、龍は水場に多く現れます。
 
 大和(奈良あたり)から三河までの行程に船が用いられて来たことは、続日本紀に書かれた持統天皇の死の直前(大宝2年つまり704年)に行われた伊勢、尾張、三河行幸の記述からも見てとることができます。 この際持統天皇は伊勢的潟(湾の地形が変わっているため場所には諸説あり)から船に乗り、三河に入ったとされていますが、その船が到着した場所、というのが、豊川という説もあれば、矢作川河口付近の西尾市あたりから、という説もあります(穂積裕昌著「伊勢神宮の考古学」)。このように、海のルートの玄関口であった矢作川の走る岡崎市にも蛇(龍)の逸話が数多くあります。例えば有名なところでは矢作川と枝流である乙川が合わさる岡崎城のある場所は龍頭と言われ、龍城神社が建てられていますね。 また前回ご紹介した浄瑠璃姫伝説の中にも、蛇の象徴である「笛」が重要なアイテムとして出てきますし、浄瑠璃姫は川に入水自殺を遂げます(笛と蛇の関連性については、民俗学者の谷川健一氏の著書「蛇ー節と再生の民族」の中で指摘されています)。
  矢作川、乙川は古くから水害がひどく、荒ぶる龍の姿が投影されていたとしても不思議ではありません。事実岡崎には籠田、龍城神社、龍海院、竜海、竜美、竜泉、竜谷など、「龍」と名のつく地名が非常に多く、岡崎城から北西に線を伸ばした先には竜神町、南東へ線を伸ばせば行き着く先は竹島の八大龍神社にあたります(日置様、情報心より御礼申し上げます!これが大きなヒントになりました)。ちなみに竜美(たつみ)とは恐らく辰巳の方位とイコールであると考えられます。つまり竜美とは辰巳であり、八大龍のいる南東方向を指すとともに辰(龍)と巳(蛇)そのままの意と考えられます。

つまりまとめると
1. 六所神社には龍にまつわる神、龍を連想させる神が多く祀られている。
2. 岡崎市には龍(竜)、蛇に関わる地名が多い。
3. 岡崎城から龍の地名をつなぐと竹島八大龍神社を先頭にした南東方向のラインとなる。

 さて、この話を一つにまとめるにあたり、無視できない神がいます。それこそが満を持して登場する古代神、アラハバキ(荒脛巾神)です。ここに至るまで長かった。。



 アラハバキは謎の神です。まず祀られている神社が少ないので、色んな人が好きな解釈をしています。しかしどうやらアラハバキは塩土老翁神と関連がある神であることは間違いないようです。鹽竈神社には摂社「阿良波々岐明神社」があります。ここでアラハバキは客人神と呼ばれ、旅人の足を守る「足の神」として尊崇を集めてきたと伝えられています。つまりアラハバキ=荒脛巾と当て字されたのはここらあたりが理由のようですね。

 しかし、陰陽五行の専門家として名高い吉野裕子氏は別の解釈をしています。それはアラハバキという名は「蛇神」を示す、というものです。蛇の古語が「ハハ」と言うことから、ハハキとは「蛇木」であり、古くは直立する樹木を蛇に見立てて祭事を行ったことからこれをアラハバキという、としています。この直立する樹木を神ないし神の依代とみる姿はまさに古神道の神籬(ひもろぎ)の姿であり、私もこの説には賛成です。そしてこの姿はもうひとつ、衝立船戸神の杖ともよく似ています。杖に蛇とくればモーゼが持っていたアロンの杖、その姿も杖と蛇、ですね。モーゼが持つ杖とは生命の木の枝から作られた羊飼いの杖です。日本では羊飼いの杖?ビシッと叩くやつ?となるかもしれませんが、西洋では羊飼いの杖とは権力の象徴です。そして行先を示す神の御使、道しるべなのです。この杖の中の杖、杖オブ杖であるモーゼのアロンの杖には蛇が巻き付いています。これはモーゼが出エジプトの際、エジプトのファラオの前で自分の杖を蛇に変えたことから結びついたものと考えられます。ちなみにこの蛇は毒蛇であり、毒蛇の毒は薬にもなることから、医療のシンボルは杖の周りに2匹の毒蛇が巻き付いた姿で描かれます。要は杖と蛇、という図式は何も日本に限った話ではなく、世界的にあるものですよ、ということです。

 もう一つ、民俗学者の谷川氏はアラハバキの塞の神、エミシの神としての性質を説いています。前述の 阿良波々岐明神社がエミシ制圧の拠点である多賀城のすぐ脇に祀られていることから、エミシの神であるアラハバキをエミシからの威力を避ける政策として祀ったのではないか、としています。事実、玉造柵にも荒脛神社が祀られており、これが防御の役割を示しているとしています。ここからいわゆる現代の塞の神である道祖神へと普及した、というのが彼の説であり、これは衝立船戸神や興玉神の持つ守護の性質と非常によく似ています。

  加えて面白いことに、このアラハバキを祀る神社というのは、多くが近代に名を変えられてしまっているものが多く、アラハバキを祀っている、祀っていた記録の残る神社は、東北、関東、甲信越、三河の順に濃い分布をみせています。そしてかの「伊勢神宮」にもアラハバキにゆかりのある社があります。

 それこそが、興玉神とともに伊勢神宮内宮正宮を守護する
 「屋乃波比伎神(矢乃波波木神)」です。

 内宮で祀られているこの神は、波波木神(ハハキノカミ)、波比岐神(ハヒキノカミ)とも言われ、内宮の南東、つまり「辰巳」の方角に祀られています。吉野裕子氏は、このことからこの波波木神が顕れることを顕波波木神(アラハバキ)としてその姿を蛇神と読んだのですが、これこそが正解なのではないでしょうか。

 そして白川静は、「祀」という字自体を蛇神信仰となぞらえています。「巳(蛇)」を神として祀る姿、それこそが古代祭祀のルーツである、というわけです。

 六所神社で祀られる多くの神。塩土老翁神、猿田彦、衝立船戸神、興玉神、 それら全てがアラハバキの姿と重なる。つまり、六所の本性はアラハバキであり、このアラハバキの本性は龍神なのではないか、というのが私の説です。

  岡崎城のあるあたりが龍頭であり、アラハバキの頭であるならば、竹島の八大龍神社は龍の尾になります。尾が八つの龍、それは八岐大蛇の姿には比せられませんでしょうか。

 スサノオが八岐大蛇を倒した時、尾から出たのが天叢雲剣、つまり熱田の御神体「草薙剣」です。そしてスサノオが大蛇を倒した十握剣、別名天羽々斬剣は、八岐大蛇の尾を咲いた際に尾の中にあった天叢雲剣に当たり欠けてしまいました。なぜ欠けたか。そしてなぜ龍を倒した勝者の剣である天羽々斬が神器となるのではなく、天叢雲剣が玉体の象徴である神器となったのか、それは八岐大蛇の剣が天孫族の持ち得ない技術であった製鉄技術の粋を極めた「鉄剣」だったからではないでしょうか。

 事実、アラハバキは製鉄に関わる神、鍛治神、製鉄神としても崇められています。アラハバキとは荒吐(アラ)吹き(ブキ)に通じ、アラハバキの名のつく神社の側は砂鉄がでるところも少なくありません。伝統的な銅鉱精錬法の最初の段階で鉱石を吹き溶かすことを「アラブキ」といいます。古くは製鉄技術を異人の呪術とみなしていた時期がありました。これの証左となるか、鹽竈神社摂社の阿良波々岐明神社には鋏や鉄製品を奉納する習慣があります。

  尾張物部をはじめとした饒速日一族が本来祀っていた神、それこそがアラハバキという龍神、蛇神だったのか、龍神信仰を持つこの一族自体をアラハバキと呼んでいたのか、それはわかりません。ただ、この岡崎に残る数々の国津神の息吹には龍の痕跡が明らかに残り、その本性はこの謎の神アラハバキとよく似ているのは事実であると思います。

 矢作川から枝流の乙川沿いにかけて、素盞嗚尊(スサノオノミコト)の名を冠した神社が大小合わせて5社、そして素盞嗚尊が祀られた神社が多く存在しています。素盞嗚尊はもともとは父である伊奘諾から海を統治するように仰せつかった神です。矢作川は古くは一色町を流れる矢作古川を整備して今の形となったもので、江戸時代までは非常に水位が高くて深い、船での往来ができるくらいの大河でした。そしてよく氾濫を起こしていました。氾濫を鎮めるため、川沿いに素戔嗚尊が祀られたのか、そもそもこの辺りの一族が国津神の一派であったため、その祖である素戔嗚尊が川の道の拠点に祀られたのか、それはわかりません。ただ、乙川沿いに建つ菅生神社の社殿には、乙川上流にあった素盞嗚神社が川の氾濫で菅生神社まで流れ着き、天王社として合祀することになった、との逸話が残っていることからも、岡崎では荒ぶる川と素盞嗚にも深い関連があることが見て取れます。

 江戸時代までは現在よりもずっと海面が高く、今の名古屋あたりは海の中でした。熱田神宮をはじめ尾張一宮の真清田神社、宮簀媛(ミヤズヒメ)の父である乎止與命(オトヨノミコト)の邸宅があったとされる氷上姉子神社などの主要な神社は、海から見ると海岸線沿いの高台に建てられており、海のルートからその壮麗な姿を権力の象徴として見ることができたでしょう。つまり三河国はつい最近まで水の国であり、一帯を治めていた一族、王家からしたら海のルート、川のルートは非常に重要であり、龍や蛇の信仰が根深く残るには十分な土地であったとしても何の不思議もないわけです。
 
 歴史を考える上で、今の地形をそのまま見ているだけでは歴史はなかなかみえてこないですね。道しるべと言って、それが必ずしも地上の話とは言えない可能性、そして海からの別の勢力の抑えとして龍を塞の神として配置したのではないか、という考察をもって、今回の話を締めくくりたいと思います。

(文責S)

2017年4月1日土曜日

檜山君の考察

坂本様

こんにちは。今回、初めて、ブログを拝見し、浄瑠璃姫に関する記述を楽しく読ませて頂きました。私も、以前から浄瑠璃姫について関心を持っており、その歴史的価値に比べて現在の岡崎では不当に低く扱われている気がしていました。浄瑠璃姫物語は、日本の浄瑠璃の起源として、たくさんの研究者が研究しているのに。。。地元でもっと、盛り上げたいですね。私の知るところ、思うところを、少々書かせて頂きます。 

浄瑠璃姫物語は、600年以上にわったって、創作の上に創作が重ねられて非常に複雑多岐に拡がった「浄瑠璃姫ワールド」を形成しています(二次創作、三次創作、、と変奏曲のように発展させて楽しむのが、日本の物語形成の特徴ですネ)。昨年は、「君の名は。」というアニメが大ヒットして、舞台になった飛騨古川に全国からファンが殺到しましたが、江戸時代の岡崎は、そのような場所だったのではないでしょうか。全国の浄瑠璃姫ファンが聖地巡礼し(といっても、自由な通行が難しかった時代ですから、伊勢講で順番が回ってきたなど、限られた機会だったと思いますが)、物語に合わせて、碑を建てたり、新たな伝説ができたり。。

ですから、浄瑠璃姫伝説のどこまでが史実なのか、もうわからなくなっています。。おそらく、鳳来寺の薬師如来を讃える説教話に、実際に悲劇の内に亡くなっていった数多くの女性の人生が重ね合され(岡崎の街にも飯盛女と呼ばれたような下流の遊女もたくさんいたでしょうし、身売りで岡崎に来て身寄りもないままに亡くなって墓もあるかないかというような女性もたくさんいたことでしょう)、そこに、何人もの物語作者の想像が加わった結果なのでしょう。

 私は、このように広大で重層的に拡がる豊穣の「浄瑠璃姫ワールド」を岡崎のパラレルワールドとして、味わっていきたいなぁと考えています。

[矢作について]

現在の岡崎では、矢作町関係の歴史が軽く扱われている気がしているのは、考え過ぎでしょうか。例えば、観光案内所でも浄瑠璃姫や「やはぎ祭り」について、ほとんど資料を持っていないんです。特に、やはぎ祭りに出る山車は、半田の亀崎地区等と比べても遜色ない立派な物です。特に二区の山車の車輪は、大木を輪切りにした一枚板で作成した非常に珍しく貴重な物で、現在では材料が無く復元不可能と言われています。その他、日本武尊の矢作り伝説、日吉丸伝説、家康の三鹿の渡し伝説など、すべて矢作が舞台ですが、あまり岡崎市では宣伝されていない気がします。また、矢作川の中に眠る河床遺跡からは、古代から中世の祭祀用品などが大雨のたびに流出し、いまだに川原に打ち上げられていることがあります。

[江戸時代の岡崎]

江戸時代、岡崎と聞いて人々がイメージするのは、城ではなく矢作橋だったようです。当時、日本最長の巨大建造物でした。橋番付(ランキング)の横綱が西の錦帯橋に東の矢作橋。ですから、浮世絵に登場する岡崎は、たいてい、画面の3分の2ほどを矢作橋が占め、その奥に小さく城が描かれています。あとは、歌舞伎の「独道中五十三駅」の中で最も人気が高かった岡崎の化け猫の場面。相当人気だったらしく、かなり大量の浮世絵が残されています。田中吉政が造り上げた「二十七曲り」で城下町と宿場町が一体となって栄えた岡崎は、江戸から伊勢参りへ行く旅人にとっては、箱根や大井川の難所を超えてゴールが見えてきた一息つける場所。逆に江戸に行く人たちにとっては、江戸の入り口だったようです。その象徴が御馳走屋敷(岡崎藩の迎賓館)。江戸にのぼる朝鮮通信使一行を江戸幕府の役人が最初に出迎える正式な接待所でした。500名くらいの大行列が数か月かけて進んで行くわけですが、その間、ずっと立派な服を着て輿に載って歌舞音曲を続けていたはずもなく、田舎道では、地味に、そろそろと歩いていたはずです。でも、正式な接待所の前では、みな着替え、楽器を演奏しながら、巨大パレードを繰り広げたかも知れません。鎖国下の日本において、数十年に一回しか来ない外国使節を見ることは、かなりのビッグイベントだったに違いありません。大陸の最先端の流行や知識を求めて各地の学者や芸術家も集まって来て、岡崎がとてもホットな場所になったに違いありません。岡崎に観光スポットがたくさん作られたとしても不思議ではないと思います。それらは、ディズニーランドの中に「ミッキーの家」があるような感覚(?)でファンタジーの世界と交錯できるスポットだったのかも知れません。

[浄瑠璃姫の名前の由来]

浄瑠璃とは、浄い瑠璃のような世界を意味する仏教用語で、薬師如来のいる東方浄土のことです。三河の国司源中納言兼高とその妻の間に子供ができず、鳳来寺の鳳来寺の薬師瑠璃光如来に祈って授かった子なので、つけた名前です。

[浄瑠璃姫の霊力]

仏の力で授かった子供なので、不思議な霊力を持っていたとする物語もあります。

1、駿河国の吹上で死んだ義経を生きかえらせた。

2、三河国笹谷で義経が法華経と歌を回向したところ、姫の墓の五輪塔が砕けた。

など。

[浄瑠璃姫の墓(供養塔)など]

実は、多数あるのです。

1、誓願寺十王堂 義経が姫と一夜を過ごした館址であり、父親の兼高長者が浄瑠璃姫の遺体を葬ったとされる。木像を作り、義経が浄瑠璃姫に贈った名笛[薄墨]と姫の鏡を安置した。位牌がある。義経浄瑠璃姫画像もある。境内には浄瑠璃姫供養塔、侍女更科と冷泉の供養塔、兼高長者の供養塔が並ぶ。(籠田公園の西にも誓願寺がありますが、別の寺です)

2、成就院:浄瑠璃姫の死後、侍女の冷泉が尼になり、身を投げた場所(浄瑠璃渕)の前に草庵を立てて住み、菩提を弔ったのが起源とされる。戦乱で廃れていたものが、室町時代に水中から本尊(姫の父ゆかりの一光三尊阿弥陀如来)が発見され、成就院として再建されたと言われる。墓地の中に浄瑠璃姫墓・侍女冷泉墓があり、脇には姫が身を投げた浄瑠璃ヶ淵。句碑「散る花に 流れもよどむ 姫の渕」。昭和の河川改修で撤去された穴観音、浄瑠璃姫の足跡石がどこにあるのか、わかりません。駅から近いのに、観光案内されてないのが残念。寺の方に聞きましたが、今は宗派が変わり、寺には浄瑠璃姫の話は残っていないようです。

3、岡崎城大手門前の浄瑠璃姫供養塔。浄瑠璃姫の遺体があがった場所で建てられ、後に城内に移された。駐車場の柵が置かれ、荒れ果てた状態なのが残念です。初代 市川団蔵(初代市川團十郎の弟子)の碑もあります。

4、六本榎光明院(浄瑠璃寺) 元は浄瑠璃姫曲輪付近にありました。義経画像、浄瑠璃姫画像と姫守本尊薬師如来があります。浄瑠璃姫の父兼高長者が瑠璃光山安西寺を開いたのが始まりとか、乳母の冷泉が建てたお寺ということになっています。浄瑠璃姫が父親に勘当されたて暮らしていた草庵の跡とする話の他、平家の目を逃れて隠れ住んだところとする話もあります。

5、安心院。義経が浄瑠璃姫の菩提を弔うために建てられたという妙大寺が始まりとする話もあり、義経公念持仏がありますが、下記のように、妙大寺を建てたのが浄瑠璃姫とする話もあります。

6、西本願寺三河別院 侍女更科の供養塔があります。浄瑠璃姫が月を愛でた観月荘の跡という碑が建っています。

7、豊田市福林寺(阿弥陀院)兼高長者夫婦の墓がある。

8、下記のように浄瑠璃姫は鳳来寺で亡くなったとする話もあり、鳳来寺にも浄瑠璃姫の祠があります。

9、浄瑠璃姫関係の遺跡は岡崎市内や周辺に留まりません。実は、下記のとおり、静岡で亡くなったという話もあり、静岡市内の吹上にも浄瑠璃姫の墓があるのです。

10、さらに、青森で亡くなったとする話もあり、貴船神社に浄瑠璃姫の石碑があります。

[その他、浄瑠璃姫にちなんだ物]

1、麝香池・麝香塚 
義経が浄瑠璃姫の遺品の麝香を沈めた(若しくは祀った)麝香池(三島小学校敷地内)と、それを伝える麝香塚(自然科学研究機構の山手地区の駐車場付近に地名が残る。明治時代の畑拡張時に破壊され、石は六所神社の鳥居横の高宮神社の碑の礎石に流用)。麝香池の傍らに碑が建っていますが、敷地の外からは見えません。
2、腰掛石・猿岩
豊川の宮路山の中には、腰掛石(義経を追いかけた姫が疲れ果てて座った石)や猿岩(姫に、諦めて帰るように諭した猿が出て来た穴のある岩)があります。
3、千本塔婆供養の跡
明大寺町東山に千本・硯田の地名が残る。ただし、硯田は、よくある地名で、その名の通り、硯の形をした田んぼだったのではないでしょうか。今研究所が建つ土地を見るとそんな形です。千本というのも、死体置き場や墓場があった場所の地名として、各地にあります(京都の千本が有名)。
4、浄瑠璃姫の琴 岡崎市滝山寺
5、浄瑠璃姫の小袖で作った斗帳 岡崎市高隆寺
6、兼高長者の念持仏 豊田市薬王院
7、「薄墨の笛」は、実は静岡にもあります。

岡崎を発った義経は田子の浦付近で重病に罹り瀕死の状態になりました。それを八幡のお告げにより知った浄瑠璃姫は急いで駆けつけ、抱きしめて涙を流すと、義経は息を吹き返しました。さらに20日の介抱により病が本画的に回復した義経は、姫に母の常磐から貰った薄墨の笛を贈りました。姫はそれを久能寺に納めましたが、この寺が荒廃したため、現在は、山岡鉄舟が再建した清水市の「鉄舟寺」に所蔵されています。

[浄瑠璃姫の死因]

<岡崎で亡くなったバージョン>

1、義経を想う心は日ごとに募るばかりで、ついに後を追いかけた。しかし、女の足では到底追いつけず、添うに添われぬ恋の悲しみのあまり、菅生川(乙川)に身を投げて短い人生を終えた。浄瑠璃姫は寿永2年(1183)3月12日に乙川に入水自殺したという近世に地元で成立した話をふまえて、その600回忌にあたる安永10年(1781)3月の追善供養の引札(チラシ)を菅江真澄が執筆しました。

2、再会を待っていた姫は侍女もんじゅの虚言(義経は死んだ)を信じて自害し、娘の死を悲しんだ母は投身した。御曹司(義経)はもんじゅを殺し加茂川に沈めた。

<新城市の鳳来寺近くで亡くなったバージョン>

3、源平の戦いの後、追われる身になった義経が奥州を目指して三河を通ったとき、源氏にゆかりのある兼高長者の家に泊った。その夜、義経は姫の弾く琴に合わせて笛を吹き、一夜を過ごした。義経は、鳳来寺の千寿が峰で待っていて下さい、と言って去った。姫は千寿が峰の麓に庵を作って乳母とともに待ちましたが、義経は現れません。待ち焦がれていたある日のこと、義経は三日前に通って行ってしまったという噂を聞きました。

 姫ははかない恋を悲しんで自害してしまいました。村人は姫を哀れんで墓を立てて供養しました。

4、浄瑠璃姫物語の中でも古い「浄瑠璃御前物語」によれば、

蒲原宿に至った御曹司(義経)は恋の想いと疲れから重い病に伏した。宿の女房が彼を吹上の浜に棄てさせた。神の知らせで知った姫は冷泉(姫の乳母)と共に吹上の浜に急ぐ。氏神の使者である白鳩の案内で漸く砂中に瀕死の御曹司を見つけ、嘆き悲しみ神々に祈誓すると、薬師の利生の姫の涙で御曹司は蘇った。二人は喜び数日を経たが再び別れの時を迎え、御曹司の招いた天狗の羽交に乗じて姫達は矢矧に飛び帰り、御曹司は旅を重ねて奥州平泉藤原秀衡のもとに至った。

 姫には、いずれ大名から婿を取ることを考えていた母の長者は、姫が金売吉次の供で馬引きの召使(実は義経。変装していた)と一夜の契りを結んだことを口惜しく思い、ましてや後を慕うことなど無念たぐいなしと怒り、「いずこなりとも紛れ行け」と追い出してしまった。

 涙に濡れて矢矧の宿を出た姫は、冷泉と共に鳳来寺の奥の笹谷に至り、細い竹の柱と笹の葉を敷いた粗末な小屋を建てて住み、食べ物もなく沢の根芹や里田の落穂を拾い露の命を送らせていたが、遂に亡くなった。

 吹上の浜で別れてから三年後、御曹司は軍勢を催し上京の途次矢矧の宿を訪ねるが姫はその時既に亡く、尼となった冷泉に案内され笹谷の墓所を訪ねた御曹司が供養すると、御墓は三度揺れてから五輪が三つに砕け、一つは御曹司の右の袂に飛び込み、一つは金色の光を放って虚空へ飛んで行き、後の一つは御墓の印となって姫は成仏した。

 その跡に寺を建立して冷泉寺と名付け、寺領を添えて冷泉に与えた御曹司は、姫を棄てさせた母に縄をかけ、矢矧川で荒簀(あらす)に巻き水の中に入れて罰した(残酷な話ですね)。

<静岡で亡くなったバージョン>

5、静岡市まで追いかけて行き、疲れ果てて亡くなった。

実際に静岡市内に浄瑠璃姫の墓があります。場所は、静岡県静岡市清水区蒲原新栄六本松公園北側。昔、浄瑠璃姫、矢作より義経を慕って東へ下る時、この地で疲れ死んだ。里人は姫の死を哀んで丁重に葬り、塚の印にと松を6本植えおいたそうです。

<青森で亡くなったバージョン>

6、義経が逃れたという伝説が残る青森には、浄瑠璃姫の伝説も残ります。兄頼朝よりともからの難を逃れた義経が、海へ出て北上し八戸の松崎海岸へ上陸した。その後、蝦夷地に渡るため陸路をたどる途中、「貴船神社」があることを知り、京都で幼少期を過ごした鞍馬の貴船神社と同名なので懐かしさもあって旅の無事を祈願した。 そのころ義経を慕って来た浄瑠璃姫と再会。しかし、旅の疲れから姫は亡くなった。義経は、姫を神社の裏山に埋葬し塚を建てた。

[明大寺との関係]

瑠璃山光明院の縁起に「持仏堂の地は浄瑠璃姫が阿弥陀仏を安置して東旭真光の二坊を建てたる所なるが、西郷氏の城郭を築くに至り地を代えしめんとしたのに本尊動かず、よってそのまま祈祷所とした。信貞が城を広むる時、多くの地を寄進して之を三の丸に移した。よってその地を浄瑠璃曲輪という。」つまり、姫が明大寺を立てたという話になっています。

連歌師の柴田屋軒宗長(そうちょう)が記した『宗長手記』の大永7年(1527)5月には、「それより矢矧の渡りして妙大寺 むかしの浄瑠璃御前跡 松のみ残て東海道の名残 命こそながめ待つれ いまは岡崎といふ松平次郎三郎(家康の祖父清康)の家城なり」とあります。これは、大永 4年に西郷信貞の山中城を攻め落とし、その娘の於波留を嫁とすることで、信貞の婿となり、西郷氏が住む旧岡崎城(明大寺地区)へ移った時期のことで、この時、旧岡崎城周辺は戦火を浴びていなかったはずなので、妙大寺と旧岡崎城は併存していたのではないでしょうか。境内の大半は城になってしまっていたかも知れませんが。

六所神社の配置を見て不自然なのは、本殿が参道の突き当りではなく、左に90度曲がった位置にあることです。六所神社は清康が松平氏発祥の地である松平郷から神を勧請して創建した神社なので、本殿の位置に、何か霊験あらたかな自然物があった、といった理由は考えられず、元からあった建造物を利用したためではないかと推測しています。あの立派な石垣は様式から見て後世の物ですが、その元になる城郭の古い石垣があったのではないかと推測しています。

[多摩の浄瑠璃姫]

興味深いことに、多摩地方には、別の浄瑠璃姫伝説があります。大磯の漁師が海から引き揚げた薬師如来を平塚城主岡崎四郎が譲り受け、拝んだところ授かったのが浄瑠璃姫。小山田高家の側室となったが、戦乱で逃げ切れず薬師如来を背負って長池(現・多摩ニュータウン内)で入水自殺した。その後、薬師如来を引き上げた僧が薬師堂を建てて供養した。岡崎の浄瑠璃姫の話と微妙に重なりますね。おそらく、本家浄瑠璃姫伝説の影響を受けているのではないでしょうか。

檜山武史(2017年4月1日)